公孫修
人物紹介
公孫修は遼東を支配した公孫淵の子である。景初2年(238)、魏の太尉司馬懿が公孫淵を討ちに来て襄平城を包囲し、8月壬午の日に公孫淵の軍勢が潰えると、公孫修は父とともに騎兵数百を率いて包囲を突破し、東南へ逃れた。大軍が急襲し、流星が落ちたまさにその場所で公孫淵父子を斬った。 正史 魏書 巻8 §47–49
陳寿の本文で彼の名は公孫淵伝のこの一節にしか見えず、字・官職・年齢は記されていない。巻末の評は、公孫淵が業を継いで凶悪さを増し、ただ自らの一族を覆すに足るのみであったと記すだけで、公孫修を別に取り上げてはいない。演義では全120回のうち第106回の1回にのみ登場し、公孫淵が人質として送ると言った「世子公孫修」として描かれる。回目に名が入った回はない。 正史 魏書 巻8 §42–50 · 71演義 第106回 §22 · 24–26
正史の記録
公孫淵伝によれば、公孫淵は太和2年(228)に叔父の公孫恭を脅してその地位を奪い、景初元年(237)に幽州刺史の毌丘倹らが璽書を携えて召し出しに来ると、兵を起こして遼隧県で迎え撃ち、毌丘倹らが不利となって引き返すと、自ら燕王となって百官・有司を置いた。 正史 魏書 巻8 §43 · 46
景初2年(238)春、魏は太尉の司馬懿を派遣して公孫淵を討たせた。6月に遼東に至った司馬懿は、将軍の胡遵らを遣わして遼隧県に陣を布いた卑衍らを破り、まっすぐ襄平へ急行した。諸軍は首山で再び卑衍らを大破したのち、城下に包囲の塹壕を掘った。長雨が30日余り続いたのち、雨が上がると土山と櫓を築いて城中に射かけ、公孫淵は窮地に陥った。兵糧が尽きて人が互いに食らい合い、死者はきわめて多く、将軍の楊祚らが降伏した。 正史 魏書 巻8 §47–48
8月丙寅の夜、長さ数十丈もある大きな流星が首山の東北から襄平城の東南へ落ちた。壬午の日、公孫淵の軍勢が潰えると、公孫淵は子の公孫修とともに騎兵数百を率いて包囲を突破し、東南へ逃れた。大軍が急追し、流星が落ちたまさにその場所で公孫淵父子を斬った。城が陥落すると相国以下の斬首は千を数え、公孫淵の首は洛陽へ送られ、遼東・帯方・楽浪・玄菟はすべて平定された。 正史 魏書 巻8 §49
陳寿の本文で公孫修の名が見えるのはこの一節だけであり、彼の字・官職・年齢と母は記されていない。明帝紀も、司馬懿が襄平で公孫淵を破り、その首を都へ送ったと記すのみである。巻末の評で陳寿は、公孫度は残酷で暴虐であって節度がなく、公孫淵はその業を継いで凶悪さを増し、ただ自らの一族を覆すに足るのみであったと述べた。 正史 魏書 巻8 §42–50 · 71正史 魏書 巻3 §61
演義の描写
演義第106回で、魏軍に追われた公孫淵は襄平城に入って固く守り、魏軍が四方を包囲する。1か月のあいだ秋雨がやまなかったのち、城中の兵糧が尽きて牛馬を殺して食らい、人々はみな恨んで公孫淵の首を斬り城を献じて降伏しようとする。公孫淵は相国の王建と御史大夫の柳甫を魏の陣営へ送り、20里退いてくれれば君臣がみずから来て降伏すると申し入れさせるが、司馬懿は公孫淵はなぜみずから来ないのかと言い、武士を叱りつけて二人を斬らせる。 演義 第106回 §13–14 · 21–22
公孫淵はさらに侍中の衛演を送り、日を定めてまず世子公孫修を人質として送り、そののち君臣がみずから縛について来て降伏すると申し入れさせる。司馬懿は、戦えるなら戦い、戦えなければ守り、守れなければ逃げ、逃げられなければ降り、降れなければ死ぬのみであって、どうして子を人質に送る必要があろうかと言い、衛演を叱りつけて帰らせる。 演義 第106回 §22–23
報告を聞いた公孫淵は大いに驚き、子の公孫修とひそかに相談をまとめると、人馬1千を選び、その夜二更ごろ南門を開いて東南へ逃れる。10里も行かないうちに、司馬懿が司馬師・司馬昭とともに道をふさぎ、胡遵の軍勢と夏侯覇・夏侯威、張虎・楽綝が四方を鉄桶のように取り囲むと、公孫淵父子はやむなく馬を下りて降伏する。 演義 第106回 §24–25
司馬懿は馬上から諸将を振り返り、前夜の丙寅の日に大きな星がこの場所に落ちるのを見たが、今夜の壬申の日にそれが的中したと言う。そして命じて斬らせ、公孫淵父子は向かい合ったまま殺される。司馬懿は襄平の役所に座し、公孫淵の宗族とともに謀った官僚たちをことごとく殺し、首級は70余りに及ぶ。 演義 第106回 §25–26
演義と異なる点
人質の話:演義第106回で公孫淵は侍中の衛演を送り、まず世子公孫修を人質として送ると申し入れ、司馬懿はこれを退ける。陳寿の本文の公孫淵伝には、降伏を請う使者も、公孫修を人質に送るという話もない。 演義 第106回 §22–23正史 魏書 巻8 §42–50
呼称:演義第106回は公孫修を「世子」と呼ぶ。陳寿の本文は「其の子脩」と記すのみで、世子に立てたという記録はない。 演義 第106回 §22正史 魏書 巻8 §49
逃走の経緯:演義第106回で公孫淵は公孫修とひそかに相談したのち、人馬1千を選んで夜の二更に南門を開いて逃れる。正史では公孫淵の軍勢が潰えると、父子は騎兵数百を率いて包囲を突破し、東南へ逃れた。 演義 第106回 §24正史 魏書 巻8 §49
最期の経緯:演義第106回で公孫淵父子は包囲されると馬を下りて降伏し、司馬懿の命で向かい合ったまま殺される。正史では大軍が急追して流星の落ちた場所で父子を斬っており、降伏したという話はない。 演義 第106回 §25–26正史 魏書 巻8 §49
日付:演義第106回で司馬懿は丙寅の日に星が落ちるのを見て5日後のことを言い、壬申の日に公孫淵父子が捕らえられる。正史では8月丙寅の夜に流星が落ち、壬午の日に公孫淵の軍勢が潰えた。 演義 第106回 §19 · 25正史 魏書 巻8 §49
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3535±0
- 武力3835−3
- 知力3335+2
- 政治3133+2
- 魅力3335+2
- 徳4042+2
- 処世3032+2
- 文芸3131±0
- 弁舌3133+2
- 用人3131±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。