公孫度

正史演義 公孫度勢力 字 升濟 Gongsun DuShengji공손도승제公孙度

プロフィール
職業正君主 · 平州牧 演君主 · 武威将軍所属公孫度勢力
登場正演収録魏書
出生正? 推定出身地遼東郡 襄平県
死去正204年 推定死去地
実在実在言及正23回

人物紹介

公孫度は字を升済といい、もとは遼東郡襄平県の人である。玄菟郡の小吏から始まり、尚書郎と冀州刺史を務め、董卓の中郎将徐栄の推挙で遼東太守となり、中平6年(189)から遼東を領有した。 正史 魏書 巻8 §36–37 · 50

郡の豪族百余家を滅ぼし、高句麗と烏丸を討って威勢を海外にまで轟かせ、自ら遼東侯・平州牧となって天地の郊祀を行った。曹操が上表して武威将軍・永寧郷侯としたが、印綬を武庫にしまい込み、建安9年(204)に死去して子の公孫康が跡を継いだ。 正史 魏書 巻8 §37 · 39–40

陳寿は評で「公孫度は残暴にして節度がなかった」と述べた。演義では第33回に遼東太守公孫康の父「武威将軍公孫度」として名前だけが初めて登場し、全120回のうち2回に登場するが、回目に名が載る回はない。 正史 魏書 巻8 §71演義 第33回 §42演義 第106回 §1

正史の記録

公孫度は字を升済といい、もとは遼東郡襄平県の人である。父は役人を避けて玄菟郡に住み、彼を郡吏にさせた。当時、玄菟太守公孫琙には十八歳で早世した子の公孫豹がいたが、公孫度は幼名を豹といい、年も同じであったので、公孫琙は彼をかわいがり、師のもとに送って学ばせ、妻を娶らせた。のちに有道に推挙されて尚書郎となり、次第に昇進して冀州刺史となったが、誹謗の噂のために免職となった。 正史 魏書 巻8 §36

同郡の徐栄が董卓の中郎将となり、公孫度を遼東太守に推挙した。玄菟の小吏出身であったため遼東郡の人々に軽んじられたが、着任すると、以前に子の公孫康を伍長として使った襄平令代理の公孫昭を捕らえ、襄平の市で笞打って殺した。かつて自分を恩をもって遇さなかった名だたる豪族の田韶らもみな法にかけて誅殺し、滅ぼされた家は百余戸に及び、郡中が震え上がった。東は高句麗を討ち、西は烏丸を撃って、威勢は海外にまで及んだ。 正史 魏書 巻8 §37

初平元年(190)、公孫度は中原が乱れていることを知り、親しい吏の柳毅・陽儀らに「漢の命運は絶えようとしている。諸君とともに王業を図らねばならぬ」と言った。ちょうど襄平の延里の社に大石が生じ、三つの小石が足のようにそれを支えたので、ある者がこれを、土地を保ち三公が補佐する瑞祥だと解釈し、公孫度はますます喜んだ。もとの河内太守李敏が彼の所業を憎んで家族を連れて海に入ると、公孫度は大いに怒り、李敏の父の墓を暴いて屍を焼き、その宗族を誅殺した。 正史 魏書 巻8 §38–39

公孫度は遼東郡を分けて遼西郡と中遼郡を作って太守を置き、海を渡って東萊の諸県を収めて営州刺史を置いた。自ら遼東侯・平州牧となり、父を建義侯に追封した。漢の二祖の廟を建て、皇帝の命を承ると称して襄平城の南に壇を設けて天地を郊祀し、藉田を耕し、兵を調練し、鸞路に乗った。 正史 魏書 巻8 §39–40

公孫度は楽浪太守として赴任する途中の涼茂を引き留めて行かせなかった。彼は、曹公が遠征に出て鄴に守りがないので、歩兵三万と騎兵一万でまっすぐ鄴を攻めれば誰が防げようかと諸将に問うた。諸将はみなそのとおりだと言ったが、涼茂は、天下が乱れているときに十万の衆を擁して座ったまま成敗を眺めているのが臣下の道かと言い、兵を挙げて西へ向かえば存亡は朝のうちに決するだろうと述べた。しばらくして公孫度は「涼君の言うとおりだ」と言った。 正史 魏書 巻11 §24–27

中原の乱を避けて邴原・管寧・王烈らが遼東に来ると、公孫度は客館を空けて彼らを待った。王烈は公孫度の長史の地位を辞退した。公孫度が邴原と同郡の劉政を恐れて殺そうとし、その家族を捕らえたとき、邴原は劉政を太史慈に託して去らせたのち、公孫度を説いて家族を釈放させた。夫余には一族の娘を嫁がせ、高句麗王伯固は兵を送って公孫度を助け、富山の賊を破った。 正史 魏書 巻11 §68–70 · 76–77 · 79正史 魏書 巻30 §40 · 55

曹操が上表して公孫度を武威将軍とし、永寧郷侯に封じると、公孫度は「わしは遼東の王だ。永寧が何だ」と言って印綬を武庫にしまい込んだ。公孫度が死ぬと子の公孫康が位を継ぎ、永寧郷侯には弟の公孫恭が封じられた。この年が建安9年(204)である。陳寿は、公孫度が中平6年(189)に遼東を領有してから孫の公孫淵まで三代五十年で滅んだと記した。 正史 魏書 巻8 §40 · 50

陳寿は評で「公孫度は残暴にして節度がなく、公孫淵はその業を継いで凶悪さを増した。ただその一族を覆すに足りただけである」と述べ、州郡を擁して割拠したものの、匹夫にも及ばなかったと記した。 正史 魏書 巻8 §71

演義の描写

演義で公孫度は直接登場せず、子と孫を紹介する箇所に名前だけが出る。第33回で袁熙と袁尚が数千騎を率いて遼東へ逃れると、演義は遼東太守公孫康を「もとは襄平の人で、武威将軍公孫度の子」と紹介する。公孫康は属官を集めて二人を受け入れるかどうかを議し、公孫恭は、袁紹は生きていたころ常に遼東を呑もうとしていたとして受け入れないよう言う。 演義 第33回 §42

第106回では公孫淵を「遼東の公孫度の孫で、公孫康の子」と紹介する。演義は続けて、建安12年に公孫康が袁尚の首を斬って曹操に献じ襄平侯に封じられたこと、公孫康が死ぬと子らが幼かったため弟の公孫恭が職を継いだこと、曹丕の時に公孫恭が車騎将軍・襄平侯に封じられたことを記す。 演義 第106回 §1

演義と異なる点

事績の有無:演義で公孫度は第33回と第106回に、子と孫の来歴として名前だけが出る。正史の公孫度伝は、彼が遼東太守となって豪族を滅ぼし、高句麗と烏丸を討ち、自ら遼東侯・平州牧となって郊祀を行ったことを記す。 演義 第33回 §42演義 第106回 §1正史 魏書 巻8 §36–40

武威将軍:演義第33回は彼を「武威将軍公孫度」と呼ぶ。正史では曹操が上表して武威将軍・永寧郷侯としたが、公孫度は「わしは遼東の王だ。永寧が何だ」と言って印綬を武庫にしまい込んだ。 演義 第33回 §42正史 魏書 巻8 §40

死:演義には公孫度の死は出てこない。正史では、公孫度が死んで子の公孫康が位を継いだ年を建安9年(204)と記す。 演義 第33回 §42演義 第106回 §1正史 魏書 巻8 §40

公孫恭の爵位:演義第106回では曹丕の時に公孫恭が車騎将軍・襄平侯に封じられる。正史では、公孫度が死んだとき公孫恭は永寧郷侯に封じられ、文帝が即位すると車騎将軍・仮節となって平郭侯に封じられた。襄平侯は公孫康が受けた爵位である。 演義 第106回 §1正史 魏書 巻8 §40–41

鄴を攻める計画:正史の涼茂伝で公孫度は、曹公が遠征に出た隙に歩兵三万と騎兵一万で鄴を攻めれば誰が防げようかと問い、涼茂の反対を聞いてしばらくのち「涼君の言うとおりだ」と言った。演義にはこの件はない。 正史 魏書 巻11 §25–27演義 第33回 §42

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率6645−21
  • 武力4040±0
  • 知力4840−8
  • 政治4540−5
  • 魅力3240+8
  • 徳640+34
  • 処世5240−12
  • 文芸3533−2
  • 弁舌5535−20
  • 用人4235−7
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

統率正66演45推定 −21

正東は高句麗、西は烏丸を討ち、威勢が海外に及んだ魏書 巻8 §37魏書 巻30 §40

演直接の記録なし — 武威将軍・遼東勢力としての事績から推定第33回 §42

弁舌・外交正55演35推定 −20

正高句麗・鮮卑の間にある夫余に一族の娘を嫁がせた魏書 巻30 §40

演直接の記録なし第33回 §42

処世正52演40推定 −12

正中原の混乱に乗じて遼東に割拠し、封爵を武庫にしまい込んだ魏書 巻8 §38

演直接の記録なし第33回 §42

近い項目 6件 — 根拠を見る

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 公孫度勢力 · 正史

関係

家族

子公孫康 演義・正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。