呉範 吳範

正史 呉 字 文則 Wu FanWenze오범문칙吴范

プロフィール
職業正方士 · 太史令所属呉
登場正収録呉書
出生正? 推定出身地会稽郡 上虞県
死去正226年 推定死去地
死因正病死 推定
実在実在言及正17回

人物紹介

呉範は字を文則といい、会稽郡上虞県の人である。暦数を修めて風気を読むことができ、孫権が東南に起こると身を委ねて仕え、災いや吉祥の兆しがあるたびに数を推して申し上げた。 正史 呉書 巻18 §2

黄祖を破る年、劉備が益州を得る年、麦城を抜け出した関羽が捕らえられる時を予言して的中させたと陳寿は記した。孫権は彼を騎都尉とし太史令を兼ねさせたが、呉範が術の要所をついに語らなかったので恨み、都亭侯の封爵から名を削った。黄武5年(226)に病死した。 正史 呉書 巻18 §3–6 · 8 · 10 · 13

陳寿は呉範・劉惇・趙達の三人を一巻に載せ、評で、彼らはそれぞれ術に精通していたが、君子が同じように心と精神を働かせるなら、大きく遠いものに用いるべきだと述べた。演義には登場しない。 正史 呉書 巻18 §28

正史の記録

呉範は字を文則といい、会稽郡上虞県の人である。暦数を修めて風気を読むことができ、郡内に名が知られた。有道科に推挙されて都へ行こうとしたが、世が乱れていたので行かなかった。ちょうど孫権が東南に起こると、呉範は身を委ねて仕え、災いや吉祥の兆しがあるたびに、すぐに数を推してその様子を申し上げた。その術はたびたび的中し、ついに名が顕れた。 正史 呉書 巻18 §2

初め、孫権が呉にいて黄祖を討とうとすると、呉範は、今年は利が少ないので来年に及ばない、来年の戊子の年には荊州の劉表もまた身は死に国は滅びるだろうと言った。孫権はそのまま黄祖を討ったが、ついに勝てなかった。翌年、軍が出て尋陽県に至ると、呉範は風気を見て船を訪ねて祝い、兵を急がせて進ませ、着くやいなや黄祖を破った。黄祖が夜に乗じて逃げ、孫権が彼を逃すことを心配すると、呉範は「遠くへは行っていないので、必ず生け捕りにできる」と言い、五更ごろ果たして彼を捕らえた。劉表はついに死に、荊州は分割された。呉主伝は、孫権が建安12年(207)と13年(208)春に相次いで黄祖を討ったと記す。 正史 呉書 巻18 §3正史 呉書 巻2 §10–11

壬辰の年になると、呉範は「歳が甲午に至れば、劉備が益州を得るでしょう」と申し上げた。のちに呂岱が蜀から戻る途中、白帝で劉備に会い、劉備の部隊は散り散りになり死者はほぼ半数に及ぶので、事は必ず成らないと言った。孫権がこれをもって呉範を詰問すると、呉範は「臣が申したのは天の道であり、呂岱が見たのは人の事にすぎません」と答えた。劉備はついに蜀を得たが、呉主伝はこれを建安19年(214)のこととして記す。 正史 呉書 巻18 §4正史 呉書 巻2 §19

孫権が呂蒙とともに関羽を襲おうと謀り、近臣たちと議論すると、多くは不可と言ったが、呉範は「得られます」と言った。のちに関羽が麦城から使者を送って降伏を願うと、呉範は、彼には逃げる気配があり、降伏するというのは偽りだと言った。孫権が潘璋にその近道をふさがせたが、斥候が関羽はすでに去ったと報告すると、呉範は、去っても逃れられず、その時は明日の正午だと言った。 正史 呉書 巻18 §5

孫権は日時計を立て水時計を下ろして待った。正午になっても知らせがないので孫権がわけを問うと、呉範はまだ正午になっていないと言った。しばらくして風が吹いて幕を揺らすと、呉範は手を打って「関羽が来ました」と言い、まもなく外で万歳を唱えて、関羽を捕らえたという知らせが伝えられた。 正史 呉書 巻18 §6

のちに孫権が魏と好を結ぶと、呉範は、風気からいえば彼らは見かけだけで来ているが実は謀をもっているので備えるべきだと言い、劉備が西陵に大軍を集めると、のちに和親するだろうと言った。陳寿は、結局すべてその言葉どおりになったと記した。 正史 呉書 巻18 §7

孫権は呉範を騎都尉とし太史令を兼ねさせ、たびたび召して問い、その秘訣を知ろうとした。呉範は自分の術を秘して惜しみ、最も肝要なところは孫権に語らず、孫権はこのために彼を恨んだ。 正史 呉書 巻18 §8

これより前、孫権が将軍であったとき、呉範は江南に王気があり、亥と子の年の間に大きな福と慶事があるだろうと申し上げ、孫権は、そのとおりになれば君を侯にしようと言った。孫権が呉王に即位すると、宴に侍っていた呉範がそのことを覚えているかと尋ね、孫権は左右を呼んで侯の綬を呉範に帯びさせた。呉範は、孫権がこれで先の言葉を済ませようとしていることを知り、手で押し返して受け取らなかった。のちに功を論じて封爵を行う際、呉範を都亭侯としたが、詔が出されようとするときになって、孫権は彼が自分に術を惜しんだことに憤り、その名を削った。 正史 呉書 巻18 §9–10

呉範は人柄が剛直で、かなり自慢を好んだが、親しい友との交わりは始めから終わりまで変わらなかった。同じ村の魏滕と仲がよく、魏滕が罪を犯して孫権がひどく怒り、あえて諫める者は死罪にすると言うと、呉範は「お前とともに死のう」と言い、髪を剃り自らを縛って門の下に出向いた。 正史 呉書 巻18 §11

門を守る鈴下が、必ず死罪になるからと取り次ごうとしないので、呉範は彼に子がいるかを尋ね、呉範のために死ぬことになれば子は自分が引き受けると言った。鈴下が入って言い終わらないうちに、孫権は大いに怒って戟を投げつけようとし、鈴下が退いて出ると、呉範が突入して額を地に打ちつけて血を流し、涙とともに言葉を尽くした。しばらくして孫権の怒りが解け、魏滕を赦した。魏滕は呉範に「父母は私を生み育てることはできても、死から免れさせることはできなかった。男子が互いに知り合うには、お前のような者が一人いれば足りる」と礼を言った。 正史 呉書 巻18 §12

黄武5年(226)、呉範は病死した。長男は先に死に、末の子はまだ幼かったので、その学業は絶えた。孫権は彼をしのび、三州で呉範や趙達のように術数を知って行える者を募り、千戸侯に封じるとしたが、ついに得られなかった。 正史 呉書 巻18 §13

陳寿は評で、呉範・劉惇・趙達の三人はそれぞれその術に精通し、思考の用い方は巧妙であったが、君子が同じように心と精神を働かせるなら、大きく遠いものに用いるのがふさわしく、それゆえ見識ある士はあれを捨ててこれを取るのだと述べた。 正史 呉書 巻18 §28

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力55
  • 政治38
  • 魅力42
  • 徳68
  • 処世35
  • 文芸60
  • 弁舌55
  • 用人40
各項目100点

項目別の根拠

スペシャル — 才能 正史 +25

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 呉 · 正史 · 正史 巻63 「權以範爲騎都尉,領太史令」