劉惇
人物紹介
劉惇は字を子仁といい、平原の人である。乱に遭って廬陵に客寓して孫輔に仕え、天文に明るく占術に通じて南方に名が知られた。孫輔は彼を軍師とし、軍中では彼を神明と呼んだ。建安年間には孫権の問いに答えて星の異変を解き、丹楊の災いを予言した。 正史 呉書 巻18 §15–16
陳寿は彼を呉範・趙達とともに呉書巻18の呉範劉惇趙達伝に載せ、評で、三人はそれぞれその術に精通し、思考の用い方が巧妙であったが、君子であれば心と精神を大きく遠いものに用いるべきであると述べた。陳寿の本文は彼の生没を記さない。演義には登場しない。 正史 呉書 巻18 §14–17 · 28
正史の記録
劉惇は字を子仁といい、平原の人である。乱に遭って土地を移って避け、廬陵に客寓して孫輔に仕えた。天文に明るく占術に通じて南方に名が知られた。洪水や日照り、盗賊があるたびに、いずれも事に先立って時期を定めて言い、当たらないことはなかった。孫輔は彼を奇とし軍師としたので、軍中はみな彼を敬って仕え、神明と呼んだ。 正史 呉書 巻18 §15
建安年間、孫権が豫章にいたとき星の異変があり、劉惇に問うと、劉惇は災いは丹楊にあると答えた。孫権がどうなるのかと問うと、劉惇は客が主人に勝つであろう、某日になれば知らせを聞かれるであろうと言った。このとき辺洪が乱を起こし、結局劉惇の言葉どおりになった。陳寿の本文の宗室伝には、建安8年(203)に偏将軍として丹楊太守を兼ねた孫権の弟孫翊が、のちに側近の辺洪に殺され、辺洪もまもなく処刑されたと記されている。 正史 呉書 巻18 §16正史 呉書 巻6 §34
劉惇は諸々の術にみな優れ、とりわけ太乙に明るく、その事をすべて推し量って解き明かすことができ、その要諦と奥妙を究め尽くした。書物百余篇を著し、名儒刁玄が奇であると称えた。劉惇もまた自分の術を宝として惜しみ、人に教えなかったので、世にそれを明らかにした者はいなかった。陳寿の本文はその後のことと彼の没年を記さない。 正史 呉書 巻18 §17
陳寿は巻18の評で、呉範・劉惇・趙達の三人はそれぞれその術に精通し、思考の用い方が巧妙であったと述べた。しかし君子が同じように心と精神を働かせるならば、大きく遠いものに用いるべきであり、それゆえ見識ある士はあれを捨ててこれを取るのだと付け加えた。 正史 呉書 巻18 §28
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率35
- 武力31
- 知力55
- 政治40
- 魅力58
- 徳45
- 処世45
- 文芸72
- 弁舌38
- 用人35
項目別の根拠
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
正丹楊の異変を予言し、辺洪の乱と符合した呉書 巻18 §16
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
正軍中がみな敬って仕え、神明と呼んだ呉書 巻18 §15
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
正書物百余篇を著し、名儒刁玄が奇であると称えた呉書 巻18 §17
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
正直接の記録なし — 孫輔の軍師であったという記録から推定呉書 巻18 §15
スペシャル — 才能 正史 +25
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占術・天文
正名手 +25 天文と占術に明るく、予言が外れたことはなかった呉書 巻18 §15呉書 巻18 §16
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 呉 · 正史 · 正史 巻63 「事孫輔」