演義の場面
司馬懿入寇西蜀
事件紹介
「司馬懿入寇西蜀」は、演義第99回の回目「諸葛亮大破魏兵、司馬懿入寇西蜀」の後半の場面である。建興8年(230)秋、病の癒えた曹真の願いによって曹真と司馬懿が40万を率いて蜀を討ちに出たが、陳倉で一月の間やまない大雨に遭い、詔で呼び戻されるまでをいう。諸葛亮は大雨をあらかじめ見越し、少ない兵で要路だけを守らせ、大軍を休ませて待つ。 演義 第99回 §39–40 · 43–49 · 52–54
陳寿の本文にも同じ出来事がある。魏書巻9の曹真伝・巻3の明帝紀と蜀書巻3の後主伝は、太和4年(230)魏が複数の道から漢中を攻めたが、大雨で道が断たれて引き返したと記す。 正史 魏書 巻9 §66–67正史 魏書 巻3 §19正史 蜀書 巻3 §11
正史に見る経過
太和4年(230)大司馬となった曹真は、蜀が相次いで辺境を侵すので複数の道から一斉に入って討つべきだと言い、皇帝はこれに従った。曹真は8月に長安を発って子午道から南へ入り、司馬懿は漢水を遡って南鄭で合流することとし、他の軍は斜谷道あるいは武威から入った。後主伝は、司馬懿が西城から、張郃が子午から、曹真が斜谷から漢中を攻めに来たと記す。 正史 魏書 巻9 §66–67正史 魏書 巻3 §19正史 蜀書 巻3 §11
諸葛亮は成固・赤坡で待ち受けた。大雨が30余日降って桟道が断たれると、9月、魏は曹真らに軍を返すよう詔を下した。散騎常侍王粛は、千里の道を兵糧を運ぶうえに長雨で山の坂が滑りやすく、曹真が出発して一月余りたっても谷を半分しか過ぎていないとして兵を休ませるよう上疏し、華歆も、苦労して険しい所に深く入っても単独で勝つ功はないと上疏した。 正史 蜀書 巻3 §11正史 魏書 巻9 §67正史 魏書 巻3 §19正史 魏書 巻13 §71–73 · 38–41
演義の描写
演義第99回で、建興8年秋7月、病の癒えた曹真は表を奉って司馬懿とともに漢中へ入りたいと願い出る。侍中劉曄は曹叡に蜀を討つよう勧め、軍事は秘密にすべきなので大臣たちの前では討てないと言ったのだと弁明する。司馬懿も呉は動けないだろうと言うと、曹叡は曹真を大司馬・征西大都督に、司馬懿を大将軍・征西副都督とし、40万を率いて長安へ出させる。 演義 第99回 §39–43
病の癒えた諸葛亮は張嶷・王平にわずか1千を与えて陳倉の旧道を守らせ、畢星が太陰に宿っているので今月中に大雨が降るだろうと言って、心配する二将を安心させる。大軍は一月の間休ませ、薪と兵糧をあらかじめ備えさせる。 演義 第99回 §44–47
陳倉城に着いた曹真は司馬懿の言葉どおり城内にとどまる。大雨が30日降って平地にも水が三尺たまり、馬が数えきれないほど死ぬと、王粛と楊阜・華歆が上疏し、魏主は二人を呼び戻す。曹真と司馬懿は伏兵を残してゆっくり退き、成固・赤坡にいた諸葛亮は追わず、別に魏を破る策があると言う。 演義 第99回 §48–55
演義と異なる点
進軍路:演義第99回では、曹真と司馬懿はともに陳倉へ出る。陳寿の本文では、曹真は子午道から(後主伝では斜谷から)入り、司馬懿は漢水を遡って西城の方面から上ってきた。 演義 第99回 §43 · 48正史 魏書 巻9 §66–67正史 蜀書 巻3 §11
大雨:演義第99回では、諸葛亮と司馬懿が天文を見て大雨をあらかじめ見越し、諸葛亮は1千人で要路を守らせる。陳寿の本文は、大雨が30余日降って桟道が断たれたとだけ記し、諸葛亮は成固・赤坡で待ち受けた。 演義 第99回 §46 · 48正史 魏書 巻9 §67正史 蜀書 巻3 §11
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