正性格が粗暴で、婢妾を多く害した魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
曹霖は魏の文帝(曹丕)の子で、母は仇昭儀である。黄初3年(222)に河東王に立てられ、黄初6年(225)に館陶県へ、太和6年(232)に東海へ移封された。明帝は先帝の遺志に従って彼を格別に愛し寵遇したが、曹霖は性格が粗暴で、閨門の内の婢妾を多く害した。 正史 魏書 巻20 §75 · 83正史 魏書 巻2 §30
その没年を列伝は嘉平元年(249)、三少帝紀は嘉平2年12月(西暦251年初め)と記す。子の曹髦は、嘉平6年(254)に曹芳が廃されると、太后の令によって明帝の後継ぎとなり、帝位に就いた。 正史 魏書 巻20 §83正史 魏書 巻4 §31 · 44 · 46 · 49
正史では文帝の子たちを集めた魏書巻20に短い伝があり、陳寿はこの巻の評で、魏の王公は封国の名があるだけで社稷の実はなかったと記した。演義では第109回で曹髦を「東海定王曹霖の子」と紹介する箇所に一度だけ名が出て、全120回のうち1回に登場する。 正史 魏書 巻20 §82–83 · 93演義 第109回 §43
文皇帝(曹丕)には九人の男子がいた。甄皇后が明帝を生み、仇昭儀が東海定王曹霖を生んだ。 正史 魏書 巻20 §75
黄初3年(222)3月乙丑の日、斉公曹叡が平原王となり、皇帝の弟の鄢陵公曹彰ら11人がみな王となり、甲戌の日に皇子曹霖が河東王に立てられた。黄初6年(225)に館陶県に改封された。 正史 魏書 巻2 §30正史 魏書 巻20 §83
文帝が即位した後、東海王曹霖が寵愛を受けると、文帝は衞臻に「平原侯はどうか」と尋ねた。衞臻は平原侯の明徳が優れていると称えるだけで、最後まで他のことは言わなかった。 正史 魏書 巻22 §86
明帝が即位すると、先帝の遺志に従って曹霖を他の諸国とは別格に愛し寵遇した。しかし曹霖は性格が粗暴で、閨門の内の婢妾の間で多くの者を害した。太和6年(232)に東海に改封された。 正史 魏書 巻20 §83
列伝は曹霖が嘉平元年(249)に死んだと記し、三少帝紀は嘉平2年12月甲辰の日(西暦251年初め)に東海王曹霖が死んだと記す。子の曹啓が跡を継いだ。景初・正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前の分と合わせて6,200戸となった。 正史 魏書 巻20 §83正史 魏書 巻4 §31
嘉平6年(254)秋、大将軍司馬師が皇帝曹芳を廃すると、太后は令を下して「東海王曹霖は高祖文皇帝の子である。曹霖の子たちは国と最も近い親族であり、高貴郷公曹髦は大成の器量があるので、明皇帝の後継ぎとする」と述べた。曹霖の子の高貴郷公曹髦は入って大宗を継ぎ、その日のうちに太極前殿で帝位に就いた。 正史 魏書 巻4 §44 · 46 · 49正史 魏書 巻20 §83
陳寿はこの巻の評で、魏の王公は国土の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄にいるのと変わらず、位号が定まらず、大小の封国が年ごとに変わったと記した。 正史 魏書 巻20 §93
演義第109回で、司馬師が曹芳を廃して新しい君主を立てようとすると、太后は彭城王曹拠の代わりに文皇帝の孫である高貴郷公曹髦を立てようと言う。演義は元城から呼び寄せられた曹髦を「字は彦士、文帝の孫で、東海定王曹霖の子」と紹介する。曹霖自身が登場する場面はなく、演義で彼の名が出るのはこの一か所だけである。 演義 第109回 §39–40 · 43
曹霖の生涯:演義第109回は曹髦を紹介する際に、その父として名を挙げるだけである。正史の列伝は、河東王に立てられたのち館陶県を経て東海に移封されたこと、明帝の寵愛、婢妾を害したこと、没年と跡を継いだ子まで記している。 演義 第109回 §43正史 魏書 巻20 §83
曹髦を立てた根拠:演義第109回の太后は、高貴郷公曹髦を「文皇帝の孫」として挙げ、温和で恭しく謙譲を知ることを理由に立てようと言い、曹霖には触れない。正史では、太后の令が「東海王曹霖は高祖文皇帝の子である。曹霖の子たちは国と最も近い親族である」と曹霖をまず挙げ、その子の中から曹髦を明帝の後継ぎとしている。 演義 第109回 §39正史 魏書 巻4 §46
文帝の寵愛:演義には文帝が曹霖を愛したことは出てこない。正史では、文帝が即位した後に曹霖が寵愛を受けると、文帝は衞臻に平原侯はどうかと尋ね、衞臻は平原侯の明徳を称えるだけで他のことは言わなかった。 演義 第109回 §43正史 魏書 巻22 §86
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
正性格が粗暴で、婢妾を多く害した魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正明帝が格別に愛し寵遇した — 人望の記録はない魏書 巻20 §83魏書 巻22 §86
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正直接の記録なし — 諸侯王としての役割から推定魏書 巻20 §83
演直接の記録なし — 東海定王としての役割から推定第109回 §43
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。