曹蕤
人物紹介
曹蕤は魏の文皇帝曹丕の子で、潘淑媛が生んだ。黄初7年(226)に明帝が即位すると陽平県王に立てられ、太和6年(232)に北海に改封された。青龍元年(233)に死去し、伝の題は北海悼王である。 正史 魏書 巻20 §75 · 78–79
翌年、琅邪王の子曹賛が彼の後継ぎとなって昌郷公に封じられ、のちに饒安王に立てられ、文安に移封された。正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて3500戸となった。 正史 魏書 巻20 §79
正史の魏書巻20武文世王公伝に短い伝があり、明帝紀に封じられた日と死去した日が見える。陳寿は巻末の評で、魏の王・公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §78–79 · 93正史 魏書 巻3 §2 · 29
正史の記録
文皇帝曹丕には息子が九人いたが、潘淑媛は北海悼王曹蕤を生んだ。 正史 魏書 巻20 §75
曹蕤は黄初7年(226)に明帝が即位すると陽平県王に立てられた。明帝紀は、その年の夏5月丁巳の日に明帝が皇帝の位に即いたのち、壬辰の日に皇弟曹蕤を陽平王に立てたと記す。太和6年(232)に北海に改封された。 正史 魏書 巻20 §79正史 魏書 巻3 §1–2
曹蕤は青龍元年(233)に死去した。明帝紀は、その年の夏5月壬申の日の詔の記事に続けて、戊寅の日に北海王曹蕤が世を去ったと記す。 正史 魏書 巻20 §79正史 魏書 巻3 §28–29
翌年の青龍2年(234)、琅邪王の子曹賛を曹蕤の後継ぎとして昌郷公に封じた。景初2年(238)に曹賛を饒安王に立て、正始7年(246)に文安に移封した。正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて3500戸となった。 正史 魏書 巻20 §79
陳寿は巻20末の評で、魏の王・公たちは封国と封土という名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そして骨肉の恩情が損なわれ、「常棣」の義が廃れたとして、制度の弊害がここまで至ったのかと嘆いた。 正史 魏書 巻20 §93
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力35
- 政治35
- 魅力36
- 徳40
- 処世36
- 文芸35
- 弁舌33
- 用人33
項目別の根拠
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 陽平王・北海王の封爵のみ魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正直接の記録なし — 藩王として推定魏書 巻20 §79
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。