司馬芝
人物紹介
司馬芝は字を子華といい、河内郡温県の人である。若いころは書生で、乱を避けて荊州へ行く途中で賊に遭ったが、ひとり老母を守って害を免れ、南方で十余年にわたって自ら田を耕して節操を守った。 正史 魏書 巻12 §78
曹操が荊州を平定したのち、菅県長・広平令・大理正を経て甘陵・沛・陽平太守を務めた。黄初年間に河南尹となって強者を抑え私的な頼みごとを退け、その官に11年あった。のちに大司農となり、在官のまま死去したが、家に余分な財産はなかった。 正史 魏書 巻12 §79–83 · 87–88 · 93
陳寿は、魏以来河南尹となった者のうち司馬芝に及ぶ者はいないと記し、評では「司馬芝は忠実で明らかであり、傾かなかった」と述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻12 §93 · 99
正史の記録
司馬芝は字を子華といい、河内郡温県の人である。若いころは書生で、乱を避けて荊州へ行く途中、魯陽山で賊に遭った。同行の者はみな老人や弱者を捨てて逃げたが、司馬芝だけはひとり座って老母を守った。賊が刃を突きつけると、司馬芝は頭を地に打ちつけて「母は年老いております。ただ皆さまのお心しだいです」と言い、賊は孝子を殺すのは義にかなわないと言って彼を放した。司馬芝は鹿車に母を乗せて押して行き、南方に十余年暮らして自ら田を耕し、節操を守った。 正史 魏書 巻12 §78
裴潜の伝によれば、荊州にいたとき裴潜は王粲と司馬芝にひそかに「劉牧は覇王の才ではないのに西伯をもって自任しようとしている。その敗れる日は遠くない」と語った。楊俊の伝によれば、司馬朗は早くから名声があったが、その族兄の司馬芝は人々に知られていなかった。ただ楊俊だけが「司馬芝は早くからの声望では司馬朗に及ばないが、実際の才はむしろ勝るところがある」と言った。 正史 魏書 巻23 §66 · 27
曹操が荊州を平定すると、司馬芝は菅県長となった。郡の主簿劉節は古い豪族出身の侠客で、賓客が千余家もあったが、司馬芝がその賓客の王同らを兵に選ぶと、掾史は劉節の家は一度も徭役に応じたことがないと言って止めた。劉節ははたして王同らを隠し、督郵に軍の徴発を口実として県を偽って責めさせた。司馬芝は済南に急ぎ檄を送って劉節の罪を詳しく告げ、日ごろ司馬芝を敬い信じていた太守郝光は、すぐに劉節を王同の代わりに送った。青州では司馬芝を「郡の主簿を兵にした人」と呼んだ。 正史 魏書 巻12 §79–80
広平令に移った。征虜将軍劉勲は貴く寵愛されて驕り高ぶり、司馬芝のかつての郡将でもあったが、その賓客や子弟が県内でたびたび法を犯した。劉勲は名を記さない手紙でいろいろと頼みごとをしたが、司馬芝は返事をせず、すべて法どおりに処理した。のちに劉勲が謀反の罪で誅殺され、彼と行き来していた者はみな罪に問われたが、司馬芝はこの件で称賛された。 正史 魏書 巻12 §80–81
大理正に移った。官の練り絹を盗んで共同便所の上に置いた者があり、役人が女工を疑って獄に送ると、司馬芝は、刑罰の誤りは苛酷で乱暴なところにある、盗品を先に見つけてからあとで供述を問いただせば、拷問に耐えられずに偽って自白することがあり、偽りの自白で獄を裁くことはできないから、疑わしい者は許そうと述べた。曹操はその意見に従った。続いて甘陵・沛・陽平の太守を歴任し、行く先々で功績を挙げた。 正史 魏書 巻12 §82
黄初年間に朝廷に入って河南尹となり、強い者を抑えて弱い者を助け、私的な頼みごとは通らなかった。宮中の役人が頼みごとをしようとして切り出せず、司馬芝の妻の伯父董昭を通じようとしたが、董昭さえ司馬芝をはばかって取り次がなかった。司馬芝は、教えを設けて破られるのは上に立つ者の劣るところであり、教えを破って知られるのは役人の禍であるとして、各自努めよとの教令を下した。門番の下僕がかんざしを盗んだ疑いで獄に入れられたときには、たとえ事実であっても、かんざし一本をそれほど惜しんで同輩を軽々しく傷つけてよいものかと言い、やめて問うなと命じた。 正史 魏書 巻12 §83–84
明帝が即位すると関内侯の爵位を賜った。まもなく特進曹洪の乳母の当が、臨汾公主の侍女とともに無澗神を祀った罪で獄につながれた。卞太后が黄門を役所に遣わして令を伝えさせたが、司馬芝はこれを取り次がず、すぐに洛陽の獄に命じて取り調べを終えて処断させたうえで、定められた規則を冒して勝手に刑を行ったので処罰を待つと上疏した。明帝は自ら返答し、詔書を奉じるために臨機に事を処理したのは正しいのだから何を謝ることがあろうかと述べ、今後黄門が再び行っても取り次がないようにと言った。 正史 魏書 巻12 §85–87
司馬芝はその官に11年あって、法令の条文のうち不都合なものをたびたび論議し、公卿の間で正しい道をもって行動した。諸王が来朝して都の人々と交わったことがあり、これに連座して免官された。 正史 魏書 巻12 §87
のちに大司農となった。それ以前から、諸典農は管轄する役人や民に商業で生計を立てさせて利益を得ていた。司馬芝は、建安年間には倉が満ちて民も豊かだったが、黄初以来典農たちに生計を営むことを許したのは国家の大きな体面にふさわしくない、農民は一年中農事をしない日がないのだから、もう商業で農事を乱さず、ひたすら農業と養蚕に努めさせるべきだと上奏した。明帝はその言葉に従った。 正史 魏書 巻12 §88–92
上官に呼ばれて尋ねられることがあるたびに、司馬芝はまず掾史に会ってその意図とわけを判断してやり、答え方を教えたが、すべて見込んだとおりであった。性格は明るく率直で、清廉さや角立った節操を誇らず、賓客と議論して意に沿わないことがあれば面と向かってその誤りをくじいたが、退いてからは陰口をきかなかった。在官のまま死去したが、家に余分な財産はなかった。陳寿は、魏から今に至るまで河南尹となった者のうち司馬芝に及ぶ者はいないと記した。 正史 魏書 巻12 §93
息子の司馬岐が跡を継いだ。司馬岐は廷尉となって、圭泰に重い刑を科そうとする鄧颺を責め、ついには罪に問われることを恐れて病を理由に官を去り、35歳で死去した。 正史 魏書 巻12 §95–97
陳寿は評で「司馬芝は忠実で明らかであり、傾かなかった」と述べ、毛玠とともに、硬いものは吐き出し柔らかいものは呑み込むようなことをしなかった者たちに近いとした。 正史 魏書 巻12 §99
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率38
- 武力31
- 知力60
- 政治82
- 魅力52
- 徳86
- 処世60
- 文芸45
- 弁舌50
- 用人48
項目別の根拠
正直接の記録なし — 県長・郡の役人としての経歴から推定魏書 巻12 §79
正直接の記録なし — 推定魏書 巻12 §78
正拷問による自白を戒めて獄を裁き、上官の問いを見込んだとおりに言い当てた魏書 巻12 §82魏書 巻12 §93
正河南尹として強者を抑え、大司農として農業本位の策を上奏して採用された魏書 巻12 §83魏書 巻12 §88魏書 巻12 §92
正太守が日ごろ敬い信じ、部下の役人たちは自ら励んだ魏書 巻12 §80魏書 巻12 §84
正賊の前で老母を守り、財産を残さずに死んだ。評は忠実で明らか魏書 巻12 §78魏書 巻12 §93魏書 巻12 §99
正劉勲の頼みごとの手紙に返事をせず、劉勲が誅殺されたとき称賛された魏書 巻12 §81
正直接の記録なし — 若いころ書生であったことから推定魏書 巻12 §78
正賓客と議論して意に沿わなければ面と向かって誤りをくじいた魏書 巻12 §93
正教令で部下の役人を励まし、答え方を教えた魏書 巻12 §84魏書 巻12 §93
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。