何楨
人物紹介
何楨は魏の弘農太守である。正史に独立した伝はなく、魏書巻11袁張涼国田王邴管伝の胡昭の条に1度現れ、陳寿の本文は彼の字と出身、死を記していない。 正史 魏書 巻11 §107
正始年間、驃騎将軍趙儼、尚書黄休・郭彝、散騎常侍荀顗・鍾毓、太僕庾嶷らとともに次々に胡昭を推薦し、天性高潔で老いてますます篤いので、召命を下して風俗を励ますべきだと述べた。胡昭は嘉平2年(250)に公車で特に召されたが、ちょうど死去した。 正史 魏書 巻11 §107–108
陳寿は巻11の評で、張臶と胡昭が門を閉ざして静けさを守り、当世のことを営まなかったと述べただけで、何楨には触れていない。演義には登場しない。 正史 魏書 巻11 §111
正史の記録
胡昭は初め冀州に難を避けたが、袁紹の招きを辞退してひそかに郷里へ帰った。太祖曹操が司空・丞相となってしばしば礼を尽くして招いたが、胡昭は自分は一介の在野の者で軍事・国政の役に立たないとして去ることを願い出て、陸渾山の中に移り住み、自ら田を耕し、経書を自らの楽しみとした。 正史 魏書 巻11 §105
建安23年(218)、陸渾県の民孫狼らが反乱を起こし、南の関羽についた。関羽が印綬を授け兵を与えると、彼らは戻ってきて寇賊となったが、胡居士は賢者であるから決してその村を犯してはならないと互いに誓い合った。天下が安定すると、胡昭は宜陽に居を移した。 正史 魏書 巻11 §106–107
正始年間、驃騎将軍趙儼、尚書黄休・郭彝、散騎常侍荀顗・鍾毓、太僕庾嶷、弘農太守何楨らが次々に胡昭を推薦した。彼らは、胡昭は天性高潔で老いてますます篤く、玄虚静素で伯夷・四皓の節操を備えているので、召命を下して風俗を励ますべきだと述べた。 正史 魏書 巻11 §107–108
嘉平2年(250)になって公車で胡昭を特に召したが、ちょうど彼は死去した。享年89であった。子の胡纂が郎中に任じられた。 正史 魏書 巻11 §108
陳寿の本文で何楨が現れるのはこの1か所だけであり、その字と出身、弘農太守以外の官職とその後のこと、死は記されていない。陳寿は巻11の評で、張臶と胡昭は門を閉ざして静けさを守り、当世のことを営まなかったので、あわせて記録したと述べたが、何楨には触れていない。 正史 魏書 巻11 §107 · 111
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力42
- 政治50
- 魅力42
- 徳45
- 処世42
- 文芸45
- 弁舌40
- 用人58
項目別の根拠
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正直接の記録なし — 弘農太守の官職から推定魏書 巻11 §107
正弘農太守として隠士胡昭を推薦した魏書 巻11 §107
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。