范慎
人物紹介
范慎は、黄龍元年(229)に孫権が尊号を称し、長男の孫登が皇太子となったとき、謝景・刁玄・羊衜らとともに東宮の賓客となった人物である。 正史 呉書 巻14 §3
赤烏4年(241)、孫登は臨終に奉った上疏で、華融とともに彼を「矯矯たる壮節があり、国士の風がある」と挙げて申し上げた。孫皓のとき武昌督であったが、建衡3年(271)に太尉となり、鳳皇2年(273)に死去した。 正史 呉書 巻14 §8 · 10 · 14正史 呉書 巻3 §63 · 66
正史には独立した伝がなく、呉書巻14呉主五子伝の孫登伝と巻3三嗣主伝に名が見えるだけで、両巻の評にも取り上げられていない。演義には登場しない。 正史 呉書 巻14 §3 · 55正史 呉書 巻3 §63 · 88
正史の記録
魏が孫権を呉王とした黄初2年(221)、長男の孫登が太子に立てられ、師傅を置き、優れた士を選んで賓客かつ友とした。黄龍元年(229)に孫権が尊号を称すると孫登は皇太子となり、諸葛恪を左輔、張休を右弼、顧譚を輔正、陳表を翼正都尉として、これを四友と呼んだ。また謝景・范慎・刁玄・羊衜らがみな賓客となったので、東宮は人材が多いと称された。 正史 呉書 巻14 §2–3
孫登は太子に立って21年目に33歳で死去し、その年は赤烏4年(241)であった。彼は臨終に奉った上疏で、自分の宮にいた臣下を一人一人挙げた。諸葛恪は才略が広く、張休・顧譚・謝景はみな通敏で識見と決断力があると述べたのち、「范慎・華融は矯矯たる壮節があり、国士の風がある」と述べた。孫登は、これらの臣下は朝廷に置くにも将帥を任せるにもふさわしく、みな時務に習熟し法令に明るく、信を守り義を固くして奪うことのできない志をもっていると言い、ともに仕事をしてその本心をよく知っているので、あえて申し上げると述べた。 正史 呉書 巻14 §8 · 10–11 · 14
孫皓の時代の建衡3年(271)、交阯を奪回して新昌郡と武平郡を置いた年に、武昌督范慎が太尉となった。鳳皇2年(273)、孫皓が寵愛する妾の訴えを聞いて司市中郎将陳声を焼いた鋸で殺したその年に、太尉范慎が死去した。陳寿の本文は彼の字や出身地、武昌督となるまでの事績を記していない。 正史 呉書 巻3 §63 · 65–66
陳寿は巻14の評で孫登の徳を称え、巻3の評では孫亮・孫休・孫皓を論じたが、范慎はどちらの評にも出てこない。 正史 呉書 巻14 §55正史 呉書 巻3 §88
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率50
- 武力38
- 知力45
- 政治50
- 魅力45
- 徳74
- 処世45
- 文芸50
- 弁舌40
- 用人40
項目別の根拠
正武昌督を経て太尉に昇った呉書 巻3 §63
正直接の記録なし — 矯矯たる壮節という評から推定呉書 巻14 §10
正直接の記録なし呉書 巻14 §10
正太尉に任じられた呉書 巻3 §63
正直接の記録なし呉書 巻14 §3
正孫登が矯矯たる壮節と国士の風があると評した呉書 巻14 §10
正直接の記録なし呉書 巻3 §66
正太子孫登の賓客となり、東宮の人材に数えられた呉書 巻14 §3
正直接の記録なし呉書 巻14 §3
正直接の記録なし呉書 巻14 §3
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。