演義の場面

鄧士載偷度陰平

事件紹介

この場面は演義第117回の回目「鄧士載偷度陰平」の場面で、蜀漢の滅亡の戦いにおいて鍾会が剣閣の姜維に阻まれている間に、鄧艾が陰平の間道から無人の地700余里を越えて江油城を奪い、涪城にまで至るくだりである。演義は、鄧艾がこの年の10月に陰平から進軍し、20余日で摩天嶺を越えたという。 演義 第117回 §7 · 13–16 · 20–25

陳寿はこの進軍を魏書巻28鄧艾伝に記した。景元4年(263)冬10月、鄧艾は陰平の道から無人の地を700余里進み、山を穿って道を通し橋や桟道を作り、毛氈で身をくるんで転がり下り、先に江由に着くと蜀の守将馬邈が降伏した。 正史 魏書 巻28 §69–71

演義の描写

演義第117回で姜維が剣閣を固く守ると、鄧艾は鍾会の陣営に行き、陰平の間道から漢中の徳陽亭に出て奇兵でまっすぐ成都を突けば姜維が救いに来るので、その隙に剣閣を奪えと言う。鍾会はその計を褒めたが、背を向けると、蜀が百余人で険所を守るだけでも鄧艾の兵は飢え死にするだろうとして彼を凡才と嘲る。鄧艾は自分を凡才と見た鍾会に成都を奪って見せるとして、その夜陰平へ軍を向ける。 演義 第117回 §2 · 7–11

鄧艾は子の鄧忠に鎧を脱いだ5千を与えて山を穿ち橋を架けさせ、3万を率いて百余里ごとに3千ずつ残して陣営を築きながら進み、10月から20余日で700余里を行くと2千だけが残る。摩天嶺でそれ以上道を開けなくなり鄧忠と壮士たちが泣くと、鄧艾は虎穴に入らずんば虎子を得ずと言って毛氈で身をくるんで先に転がり下り、兵たちは木につかまり崖にぶら下がって魚を連ねるように下りる。嶺を越えると「二火初めて興り、人の此を越ゆる有り」で始まる武侯の碑があり、鄧艾は碑に再拝する。 演義 第117回 §12–17

武侯が守らせていた空の陣営を通りながら、鄧艾は帰る道がないのだから江油城を攻めてこそ生きられると兵を励ます。城を守る馬邈は大道だけを守り、妻の李氏に不忠を責められていたところへ鄧艾の2千余人が城に入ってきたので降伏し、李氏は自ら首をくくって死ぬ。鄧艾は彼女を手厚く葬り、休もうと言う田続を斬ろうとしたが将たちに止められて思いとどまった後、涪城へ進むと、城内の人々は天から降りてきたと思ってみな降伏する。 演義 第117回 §19–25

演義と異なる点

計略を述べた場所:演義第117回で鄧艾は姜維が守る剣閣の前の鍾会の陣営に行って陰平の計を述べ、鍾会はこれを嘲る。正史鄧艾伝では、鄧艾が上書して、陰平から間道で徳陽亭を経て涪県へ向かえば剣閣の西百里に出て成都まで3百余里であり、奇兵でその腹心を突くことができると述べた。 演義 第117回 §7–9正史 魏書 巻28 §69–70

陰平の行軍:演義第117回で鄧艾は百余里ごとに3千ずつ残し、2千だけを連れて摩天嶺を越え、武侯の碑を見る。正史鄧艾伝は、無人の地700余里を行く間に兵糧の輸送が尽きかけて何度も危うくなったとし、残した陣営・兵の数・碑については記さない。 演義 第117回 §13–17正史 魏書 巻28 §71

馬邈の降伏:演義第117回で馬邈は妻の李氏に責められているところで降伏し、李氏は自ら命を絶つ。正史鄧艾伝は、先に江由に着くと蜀の守将馬邈が降伏したとだけ記す。 演義 第117回 §20–23正史 魏書 巻28 §71

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (1)