演義の場面
罵死王朗
事件紹介
罵死王朗は、演義第93回の回目「姜伯約帰降孔明 武郷侯罵死王朗」の後半の場面で、諸葛亮の北伐の最初の出兵の時のことである。魏の司徒王朗が曹真に従って祁山の前に出て、言葉で諸葛亮を降伏させようとしたが、かえって諸葛亮から逆賊を助けた老賊だと罵られ、憤りを抑えきれずに馬から落ちて死ぬ。 演義 第93回 §30–46
陳寿の本文の王朗伝は、王朗が司徒在任中の太和2年に死んだとだけ記し、出征や諸葛亮と対面したことはない。 正史 魏書 巻13 §64 · 69
演義の描写
演義第93回で、諸葛亮が姜維を得て祁山に出て渭水の西に至ると、太和元年、魏主曹叡の朝廷で司徒王朗が曹真を大都督に推挙し、自らも従って行くと申し出た。この時王朗は76歳である。11月、曹真は郭淮を副都督、曹遵・朱賛を先鋒として20万の軍を率いて出発し、王朗は一言で諸葛亮を拱手して降伏させてみせると豪語した。 演義 第93回 §30–34
翌日、祁山の前で王朗は漢の衰えと曹操・曹丕が天命を受けたことを並べ立て、天に従う者は興り、逆らう者は滅ぶと降伏を勧めた。四輪車に座った諸葛亮は大笑いし、代々東海に住み孝廉で仕官した者が逆賊を助けて簒奪を企てたと責め、白髪の匹夫、白鬚の老賊が何の面目あって漢の二十四帝にまみえるのかと詰め寄った。王朗は憤りが胸に満ち、大きく一声叫んで馬から落ちて死んだ。 演義 第93回 §35–44
諸葛亮は明日決戦しようと言って退き、曹真は王朗の遺体を長安に送り返した。その夜、郭淮は諸葛亮が喪中に乗じて陣を襲うと見て、蜀の陣を襲う兵と迎え撃つ伏兵を設けたが、これを前もって読んだ諸葛亮が曹遵・朱賛を大いに破った。 演義 第93回 §46–55
演義と異なる点
王朗の死:演義第93回では、王朗は太和元年11月に曹真に従って出征し、祁山の前で諸葛亮に罵られて死ぬ。正史の王朗伝では、王朗は明帝の時に司徒として上疏し、太和2年に死んで成侯と諡された。出征したという記録はない。 演義 第93回 §33–44正史 魏書 巻13 §64–69
曹真の出兵:演義は、王朗の推挙により曹真が太和元年11月に出発したとする。正史の明帝紀は、太和2年春に諸葛亮が攻め入り、天水・南安・安定の3郡が呼応すると、大将軍曹真に関右を都督させ、張郃が街亭で馬謖を破ったと記す。曹真伝も、曹真が郿県に駐屯して諸軍を監督したという。 演義 第93回 §31–33正史 魏書 巻3 §8正史 魏書 巻9 §65
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