蹇碩

正史演義 Jian Shuo건석蹇硕

プロフィール
職業正その他 · 西園上軍校尉 演その他 · 中常侍所属
登場正演収録
出生正? 演? 推定出身地
死去正189年 演(同じ) 推定死去地
死因正殺害 演殺害 推定
実在実在言及正3回

人物紹介

蹇碩は後漢の霊帝が寵愛した小黄門である。正史には独立した伝がなく、魏書巻8二公孫陶四張伝の張楊の条に2回登場する。霊帝の末年に天下が乱れると、霊帝は彼を西園上軍校尉とし、都に軍を駐屯させて四方を制しようとし、太祖(曹操)や袁紹らはみな校尉となって彼に属した。霊帝が崩御すると、蹇碩は何進に殺された。 正史 魏書 巻8 §30–31

陳寿の本文は彼の字と出身を記さず、彼を評してもいない。演義には第1回で「十常侍」と呼ばれた十人の一人として初めて登場し、全120回のうち第1・2回の2回に登場する。名が回目に入った回はない。第2回で霊帝に何進をまず殺すよう進言するが、何進が太子弁を立てたのち袁紹が捕らえに入ってくると御園へ逃げ、中常侍郭勝に殺される。 正史 魏書 巻8 §30–31演義 第1回 §6演義 第2回 §38 · 41–42

正史の記録

魏書巻8の張楊の条は、張楊が雲中の人で、武勇によって并州で職を得て武猛従事となったと記している。霊帝の末年に天下が乱れると、霊帝は寵愛する小黄門蹇碩を西園上軍校尉とし、都に軍を駐屯させて四方を制しようとし、天下の豪傑を召して偏将・裨将とした。太祖(曹操)や袁紹らはみな校尉となって彼に属した。并州刺史丁原は張楊に兵を率いて蹇碩のもとへ行かせ、張楊は仮司馬となった。 正史 魏書 巻8 §30

霊帝が崩御すると、蹇碩は何進に殺された。張楊は再び何進の命を受けて本州に帰って兵を募り、千余人を得て、そのまま上党にとどまって山賊を討った。 正史 魏書 巻8 §31

武帝紀は、曹操が召されて典軍校尉となったのち、霊帝が崩御して太子が即位し、太后が朝政に臨むと、大将軍何進が袁紹とともに宦官を殺そうと謀ったが、太后が聞き入れなかったと記している。袁紹伝も、霊帝の崩御後に何進が袁紹と諸宦官を殺そうと謀ったが、太后が従わなかったと記す。二つの記録には蹇碩の名は出てこない。 正史 魏書 巻1 §5正史 魏書 巻6 §34

陳寿の本文で蹇碩が登場するのは、張楊の条のこの2節だけである。彼の字と出身、何進が彼を殺した経緯は記されておらず、彼に対する評もない。 正史 魏書 巻8 §30–31

演義の描写

演義第1回で、霊帝の時代に不吉なことが相次ぐと、議郎蔡邕は女性と宦官が政治に口を出しているせいだと上疏するが、ひそかに盗み見た曹節の讒言によって故郷へ追放される。その後、曹節・蹇碩・郭勝ら十人が徒党を組んであらゆる悪事を働き、人々は彼らを「十常侍」と呼んだ。 演義 第1回 §5–6

同じ回で曹操は洛陽北部尉となり、五色の棒十数本を県城の四門に掛け、禁令を犯す者は権勢家であっても容赦なく打ち据える。中常侍蹇碩の叔父が夜中に刀を持って歩いていたところを巡回中の曹操に捕らえられてただちに棒で打たれ、これにより内外で法を犯す者はいなくなる。 演義 第1回 §39–40

第2回で中平6年(189)夏4月、霊帝の病が重くなる。董太后はかつて皇子協を太子に立てるよう勧めたことがあり、皇帝も協をひいきしていたが、中常侍蹇碩は、協を立てるならまず何進を殺して後の禍根を断たねばならないと奏上する。皇帝はそれをもっともだとして何進を宮中に呼ぶが、宮門に着いた何進に、司馬潘隠が、蹇碩が公を殺そうと謀っていると告げる。何進は大いに驚いて屋敷へ帰り、大臣たちを集めて宦官を皆殺しにしようとする。 演義 第2回 §36–39

潘隠は再び来て、皇帝はすでに崩御し、蹇碩と十常侍が相談して喪を伏せ、偽の詔で何国舅を宮中に呼んで後の禍根を断ち、皇子協を皇帝に立てようとしていると告げる。何進は袁紹に御林軍5千を与え、大臣三十余人を率いて次々と入り、霊帝の柩の前で太子弁を帝位に即かせる。 演義 第2回 §40–41

袁紹が宮中に入って蹇碩を捕らえようとすると、蹇碩はあわてて御園へ逃げ込み、花陰で中常侍郭勝に殺され、彼の率いていた禁軍はみな投降する。事が急になったほかの宦官たちは何太后に、最初に大将軍を害そうと謀ったのは蹇碩一人だけだと訴える。何太后は、不仁な蹇碩はすでに誅されたのに、なぜ宦官を皆殺しにしようとするのかと何進を諭し、何進は役人たちに、蹇碩は自分を害そうと謀ったのでその一族は滅ぼしてよいが、ほかの者はむやみに害さなくてよいと言う。 演義 第2回 §42–44

演義と異なる点

身分:演義第1・2回で蹇碩は中常侍と呼ばれ、「十常侍」の十人の一人である。陳寿の本文は彼を霊帝が寵愛した小黄門と記し、十常侍という言葉は用いない。 演義 第1回 §6演義 第2回 §38正史 魏書 巻8 §30

西園の軍:正史で蹇碩は西園上軍校尉として都に軍を駐屯させ、太祖(曹操)や袁紹らが校尉となって彼に属した。演義第1・2回にはこの官職は出てこず、第2回で蹇碩が死んだのち、彼の率いていた禁軍が投降したとあるだけである。 正史 魏書 巻8 §30演義 第2回 §42

何進殺害の企て:演義第2回で蹇碩は霊帝に何進をまず殺すよう進言し、潘隠は、霊帝の死後に蹇碩と十常侍が喪を隠して偽の詔で何進を呼ぼうとしていると告げる。陳寿の本文の張楊の条と武帝紀・袁紹伝には、蹇碩が何進を殺そうとしたという記録はない。 演義 第2回 §38 · 40正史 魏書 巻8 §30–31正史 魏書 巻1 §5正史 魏書 巻6 §34

死:演義第2回で蹇碩は袁紹が捕らえに来ると御園へ逃げ、中常侍郭勝に殺される。正史は、霊帝が崩御すると蹇碩が何進に殺されたと記す。郭勝は陳寿の本文には登場しない。 演義 第2回 §42正史 魏書 巻8 §31

叔父の一件:演義第1回で洛陽北部尉の曹操は、夜中に刀を持って歩いていた蹇碩の叔父を捕らえて棒で打つ。陳寿の本文の武帝紀は、曹操が洛陽北部尉に任じられたのち頓丘令に移ったとだけ記し、蹇碩の叔父の一件は記さない。 演義 第1回 §40正史 魏書 巻1 §2

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4535−10
  • 武力3331−2
  • 知力3538+3
  • 政治3822−16
  • 魅力3825−13
  • 徳3815−23
  • 処世3825−13
  • 文芸3131±0
  • 弁舌3335+2
  • 用人3531−4
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

政治正38推定演22 −16

正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

演十常侍として徒党を組み、あらゆる悪事を働いた第1回 §6

魅力正38推定演25 −13

正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

演同僚の郭勝に殺され、禁軍はみな投降した第2回 §42

処世正38推定演25 −13

正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

演事が急になると御園へ逃げ、花陰で死んだ第2回 §42

統率正45演35 −10

正西園上軍校尉として都の軍を率い、曹操・袁紹が配下に属した魏書 巻8 §30

演率いていた禁軍がみな投降した第2回 §42

近い項目 5件 — 根拠を見る
  • 武力正33推定演31推定 −2

    正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

    演直接の記録なし — 中常侍としての事績から推定第1回 §6

  • 知力正35推定演38 +3

    正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

    演協を立てるため何進の排除を謀ったが、事が漏れた第2回 §38第2回 §40

  • 文芸・学術正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

    演直接の記録なし — 中常侍としての事績から推定第1回 §6

  • 弁舌・外交正33推定演35推定 +2

    正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

    演直接の記録なし — 中常侍としての事績から推定第1回 §6

  • 識人・用人正35推定演31推定 −4

    正直接の記録なし — 小黄門・上軍校尉としての事績から推定魏書 巻8 §30魏書 巻8 §31

    演直接の記録なし — 中常侍としての事績から推定第1回 §6

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(2回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

関連事件(1)

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