応瑒 應瑒

正史 魏 字 德璉 Ying ChangDelian응창덕련应玚

プロフィール
職業正文官 · 五官将文学所属魏
登場正収録魏書
出生正? 推定出身地汝南郡
死去正217年 推定死去地
死因正病死 推定
実在実在言及正8回

人物紹介

応瑒は字を徳璉といい、汝南の人である。曹操に召されて丞相掾属となり、平原侯庶子を経て五官将文学となった。五官将曹丕と平原侯曹植がともに文学を好んでいたころ、王粲・徐幹・陳琳・阮瑀・劉楨とともに友として親しく遇された。 正史 魏書 巻21 §9 · 19

文章と賦数十篇を著し、建安22年(217)に徐幹・陳琳・劉楨と同じ年に死去した。曹丕は疫病で彼らが一度に世を去ったと述べ、応瑒が著述の志を遂げられなかったことを痛惜した。 正史 魏書 巻21 §19–21

正史には独立した伝がなく、王粲伝の末尾に劉楨とともに付されており、その後に弟の応璩と応璩の子応貞も文章で名を馳せたと記されている。陳寿は評で、王粲ら六人が最も名を知られたと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻21 §18 · 25–26 · 99

正史の記録

応瑒は字を徳璉といい、汝南の人である。正史は彼を王粲伝の末尾に劉楨とともに付して記した。かつて曹丕が五官将となったとき、平原侯曹植とともにどちらも文学を好み、王粲は北海の徐幹、広陵の陳琳、陳留の阮瑀、汝南の応瑒、東平の劉楨とともに、みな友として親しく遇された。 正史 魏書 巻21 §9 · 18

応瑒と劉楨はそれぞれ曹操に召されて丞相掾属となった。応瑒は平原侯庶子に移り、のちに五官将の文学となった。二人とも文章と賦数十篇を著した。 正史 魏書 巻21 §19

阮瑀は建安17年(212)に死去し、徐幹・陳琳・応瑒・劉楨は22年(217)に死去した。曹丕は元城令の呉質に宛てた手紙で、昨年疫病が流行して親類や友人の多くがその災いに遭い、徐幹・陳琳・応瑒・劉楨が一度にみな世を去ったと述べた。 正史 魏書 巻21 §20

手紙は彼らの文章を一つずつ挙げ、応瑒について「徳璉はつねに文彩が輝き、著述の志を抱いていた。その才と学は書を著すに足りたが、美しい志は遂げられなかった。まことに痛ましく惜しい」と述べた。そして、諸君はただ古人に及ばなかっただけで、それでも一時代の俊傑であったという言葉で結ばれる。 正史 魏書 巻21 §21–22

陳寿は応瑒の後に応璩を付し、応瑒の弟応璩と応璩の子応貞もみな文章で名を馳せたと記した。応璩は官が侍中に至り、応貞は咸熙年間に相国の軍事に参与した。 正史 魏書 巻21 §25–26

陳寿は巻21の評で、文帝と陳王が公子の尊い身分で文彩を広く好んだので才士がともに現れたが、その中で王粲ら六人が最も名を知られたと述べた。 正史 魏書 巻21 §99

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力45
  • 政治42
  • 魅力50
  • 徳48
  • 処世40
  • 文芸80
  • 弁舌40
  • 用人35
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻21 「瑒轉爲平原侯庶子」

家族

兄弟姉妹応璩 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。

関連事件(1)

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