政治

建安二十二年の疫病の流行 建安二十二年瘟疫

事件紹介

建安二十二年の疫病の流行は、建安22年(217)呉を討ちに行った曹操の軍中と文人たちの間に広まった疫病である。その年、夏侯惇・臧覇らとともに呉を討ちに行った司馬朗は、居巣で兵士の間に大疫病が広まると自ら見回って医者と薬を手配したが、病にかかって死んだ。徐幹・陳琳・応瑒・劉楨の四人の文人も同じ年に死に、曹丕は呉質に送った手紙で、疫病が流行してこの人々が一度に世を去ったと書いた。 正史 魏書 巻15 §26正史 魏書 巻21 §20

陳寿はこの疫病を魏書巻15劉司馬梁張温賈伝の司馬朗の記事と、巻21王衛二劉傅伝に記した。巻1武帝紀はこの年の呉征伐を記すが、疫病は記さない。演義にはこの疫病は出てこない。 正史 魏書 巻15 §26正史 魏書 巻21 §20–21正史 魏書 巻1 §155–156

正史に見る経過

建安21年(216)冬10月、曹操は兵を整えて孫権を討ちに出て、11月に譙に至った。22年(217)春正月に居巣に陣を構えた曹操は、2月に江西の郝谿に進み、濡須口に城を築いて防いでいた孫権を追い詰め、3月に軍を率いて帰る際、夏侯惇・曹仁・張遼らを残して居巣に駐屯させた。 正史 魏書 巻1 §155–156

司馬朗伝は、建安22年に司馬朗が夏侯惇・臧覇らとともに呉を討ちに行き、居巣に至った時、兵士の間に大疫病が広まったと記す。司馬朗は自ら見回って医者と薬を手配したが、自身も病にかかって47歳で死に、布衣に幅巾の姿とし、時節の平服で納棺せよと遺言した。州の人々は彼をしのんだ。 正史 魏書 巻15 §26

王衛二劉傅伝は、徐幹・陳琳・応瑒・劉楨が建安22年に死んだと記す。曹丕は元城令呉質に送った手紙で、昨年疫病が流行して親族や友人の多くがその災いにあい、この四人が一度に世を去ったと言い、『中論』を著した徐幹を文と質の調和した君子と呼び、著述の志を遂げられなかった応瑒を惜しんだ。 正史 魏書 巻21 §20–21

同じ巻は、建安21年に呉征伐に従った王粲が22年春に道中で病死したと記すが、その病が疫病であったとは明らかにしていない。 正史 魏書 巻21 §8

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

正史の登場巻 (3)