曹徽
人物紹介
曹徽は魏の武皇帝曹操の子で、母は宋姫である。大叔父にあたる朗陵哀侯曹玉の後を継ぎ、建安22年(217)に歴城侯に封じられたのち、黄初年間に公を経て廬江王・寿張王となり、太和6年(232)に東平に改封された。 正史 魏書 巻20 §2 · 67
青龍2年(234)、官属に寿張県の吏を打たせたため県一つ・五百戸を削られたが、その年のうちに返された。正始3年(242)春正月に死去し、子の曹翕が後を継いだ。 正史 魏書 巻20 §67–68正史 魏書 巻4 §13
正史魏書巻20の武文世王公伝に短い伝があり、高堂隆の伝には、歴城侯であった頃に太祖の喪に遭いながら狩りに出て高堂隆の諫言を受けたことが載っている。陳寿は巻末の評で、魏の王・公は国土の名があるだけで社稷の実がなく、禁令と監視に隔てられて獄に囚われたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §66–67 · 93正史 魏書 巻25 §60
正史の記録
武皇帝には二十五人の男子があり、宋姫が東平霊王曹徽を産んだ。 正史 魏書 巻20 §2
曹徽は大叔父にあたる朗陵哀侯曹玉の後を継いだ。建安22年(217)に歴城侯に封じられ、黄初2年(221)に爵位が公に進んだ。3年(222)に廬江王となり、4年(223)に寿張王に移封され、5年(224)に寿張県に改封された。太和6年(232)に東平に改封された。 正史 魏書 巻20 §67
太祖が招いて丞相軍議掾とした高堂隆は、のちに歴城侯曹徽の文学となり、相に移った。曹徽は太祖の喪に遭っても悲しまず、かえって狩りをして馬を走らせたが、高堂隆は義をもって正しく諫めた。陳寿は、高堂隆が輔導の節をよく守ったと記した。 正史 魏書 巻25 §60
青龍2年(234)、曹徽は官属に寿張県の吏を打たせて有司に弾劾され、詔によって県一つ・五百戸を削られた。その年のうちに削られた県を返された。 正史 魏書 巻20 §67–68
同じ青龍2年、明帝が私的に賓客と交わって弾劾された趙王曹幹を戒めて下した璽書にも、この件が見える。璽書は、近ごろ東平王がまた官属に寿張県の吏を打たせたので、有司が弾劾し、県を削るよう裁決したと述べた。 正史 魏書 巻20 §41 · 43
曹徽は正始3年(242)に死去した。魏書の三少帝紀は、その年の春正月に東平王曹徽が死去したと記す。子の曹翕が後を継ぎ、景初・正元・景元年間にたびたび食邑が加増され、以前のものと合わせて3,400戸となった。 正史 魏書 巻20 §68正史 魏書 巻4 §13
曹徽が死んだ時、武皇帝の別の子である曲陽王曹茂は、喉が痛いと言って哭そうとせず、普段どおりに暮らし出入りした。有司が封土を除くよう上奏すると、詔によって曹茂の県一つ・五百戸を削った。 正史 魏書 巻20 §73
陳寿は巻末の評で、魏の王・公は国土の名があるだけで社稷の実がなく、禁令と監視に隔てられて獄に囚われたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そのために骨肉の恩は損なわれ、「常棣」の義は廃れたとして、制度の弊害がここに至ったと記した。 正史 魏書 巻20 §93
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力33
- 知力35
- 政治33
- 魅力35
- 徳22
- 処世38
- 文芸38
- 弁舌33
- 用人33
項目別の根拠
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正寿張県の吏を殴打させて弾劾され、県一つ・500戸を削られた魏書 巻20 §67
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正太祖の喪中に狩りをし、官属に県の吏を打たせて弾劾された魏書 巻20 §67魏書 巻25 §60
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正直接の記録なし — 曹操の子で諸侯王という立場から推定魏書 巻20 §67
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。