正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
韋晃
人物紹介
韋晃は後漢末、漢の朝廷の司直であった。正史には独立した伝がなく、陳寿の本文では武帝紀の建安23年(218)春正月の記事に一度出てくる。この時、彼は漢の太医令吉本、少府耿紀らとともに反乱を起こして許を攻め、丞相長史王必の陣営を焼いたが、王必と潁川典農中郎将厳匡に討たれて斬られた。 正史 魏書 巻1 §159
陳寿の本文は彼の字や出身、経歴を記しておらず、武帝紀の評でも彼を取り上げていない。演義には第69回にのみ登場し、120回のうち1回の登場で、その回目は「漢賊を討たんとして五臣節に死す」で終わる。演義は彼を耿紀とともに事を図り金禕を引き入れる人物として描き、捕らえられて市で死ぬとき、顔を地に打ちつけて無念だと叫ばせる。 正史 魏書 巻1 §159 · 173演義 第69回 §25–26 · 38–39
正史の記録
建安23年(218)春正月、漢の太医令吉本が少府耿紀、司直韋晃らとともに反乱を起こして許を攻め、丞相長史王必の陣営を焼いた。王必は潁川典農中郎将厳匡とともにこれを討って斬った。 正史 魏書 巻1 §159
陳寿の本文で韋晃が出てくるのはこの記事だけである。武帝紀は彼の字や出身、経歴、反乱を起こした理由を記していない。その一年前の建安22年(217)、天子は魏王曹操に天子の旌旗を立てて出入りに警蹕を称させ、冬10月には十二旒の冕をかぶって金根車に乗らせた。 正史 魏書 巻1 §159 · 157
武帝紀の評で陳寿は曹操を論じるのみで、韋晃の名は挙げていない。 正史 魏書 巻1 §173
演義の描写
演義第69回で、管輅が来春の許都に必ず火災があると言うと、曹操は鄴郡にとどまり、夏侯惇に許都を巡察させ、長史王必に御林軍の軍馬を任せる。建安23年春正月、曹操が王爵に進み天子の車駕と服飾を用いることを快く思わない少府耿紀が、ごく親しい間柄の司直韋晃とひそかに相談すると、韋晃は、姓は金、名は禕という漢の宰相金日磾の子孫の腹心がおり、日頃から曹操を討つ心を抱き王必ともごく親しい間柄であるとして、彼とともに図ろうと言う。 演義 第69回 §23–26
二人が金禕の家を訪ねると、韋晃は、魏王は遅かれ早かれ禅譲を受けて帝位に即くだろうから、あなたと王長史が高位に昇ったら自分たちを引き立ててほしいと探りを入れる。金禕が袖を払って立ち上がり茶を地面にぶちまけると、韋晃はわざと驚いたふりをして、旧友なのになぜこれほど薄情なのかと言う。金禕に忠義の心があるのを見た二人は、先の言葉は試しただけだと言って実情を打ち明け、韋晃は国に報いる心はあるが賊を討つ計略はまだないと言う。 演義 第69回 §27–29
金禕は内外から呼応して王必を殺し、その兵権を奪って天子の車駕を奉じ、劉皇叔と手を結ぼうと言い、太医吉平の二人の子吉邈・吉穆を羽翼として引き入れる。金禕の計画は、正月十五日の夜、元宵節の灯火に乗じて耿少府と韋司直がそれぞれ家僮を率いて王必の陣営の前へ攻め込むというものである。五人は天に誓い、血をすすって盟約を結び、耿紀と韋晃はそれぞれ家僮三、四百人を擁して武器をあらかじめ整える。 演義 第69回 §29–33
正月十五日の夜、二更を過ぎて王必の陣営で火が起こり、王必の知らせを受けた曹休が城内で防ぐ。城外5里に駐屯していた夏侯惇が大軍で許都を包囲し、夜が明けるまで戦いが続き、金禕と二人の吉氏がみな死んだとの知らせが届く。耿紀と韋晃は血路を開いて城門から打って出るが、夏侯惇の大軍に包囲されて生け捕りにされ、その配下百余人はみな殺される。 演義 第69回 §34 · 36–38
曹操は耿紀・韋晃の二人と五家の一族老若をすべて市で斬らせる。刑場で耿紀が最後まで罵り続けて死ぬと、韋晃は顔を地に打ちつけて「無念だ!無念だ!」と言い、歯を食いしばるうちに歯がすべて砕けて死ぬ。演義は「耿紀は精忠、韋晃は賢」で始まる後世の人の詩を添える。 演義 第69回 §38–40
その後、曹操は鄴郡へ護送されてきた百官に、耿紀・韋晃らが火を放って許都を焼いたとき、火を消した者は紅旗の下に、消さなかった者は白旗の下に立てと言う。紅旗の下に立った者たちは実は賊を助けようとしたのだとして漳河のほとりで斬り、死んだ者は三百余人であった。 演義 第69回 §41–42
演義と異なる点
決起した者:演義第69回では耿紀が韋晃と相談して事を始め、韋晃が金禕を引き入れ、金禕が太医吉平の二人の子吉邈・吉穆を引き入れる。正史武帝紀では漢の太医令吉本が少府耿紀、司直韋晃らとともに反乱を起こしており、金禕と二人の子の名はない。 演義 第69回 §25–31正史 魏書 巻1 §159
決起の理由:演義第69回では、曹操が王爵に進み天子の車駕と服飾を用いることに耿紀が不満を抱き、韋晃と事を図る。正史武帝紀は、建安22年(217)に天子が王に天子の旌旗と冕・金根車を許したことを記すが、韋晃らが反乱を起こした理由は記さない。 演義 第69回 §25正史 魏書 巻1 §157 · 159
鎮圧した者:演義第69回では、王必の知らせを受けた曹休が城内で防ぎ、夏侯惇が大軍で許都を包囲して耿紀と韋晃を捕らえる。正史武帝紀では王必が潁川典農中郎将厳匡とともに討って斬っており、曹休と夏侯惇は出てこない。 演義 第69回 §36–37正史 魏書 巻1 §159
死:演義第69回で韋晃は捕らえられて市で斬られ、顔を地に打ちつけ、歯を食いしばるうちに歯がすべて砕けて死ぬ。正史武帝紀の陳寿の本文は、王必と厳匡が反乱を討って斬ったとだけ記す。 演義 第69回 §38–39正史 魏書 巻1 §159
百官の処罰:演義第69回で曹操は、火を消しに出てきた百官三百余人を漳河のほとりで斬る。正史武帝紀の陳寿の本文にはこの出来事はない。 演義 第69回 §41–42正史 魏書 巻1 §159–161
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率4035−5
- 武力3838±0
- 知力3830−8
- 政治4035−5
- 魅力3840+2
- 徳4575+30
- 処世3835−3
- 文芸3533−2
- 弁舌3550+15
- 用人3348+15
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
演腹心の金禕を決起の同志として推薦した第69回 §26
近い項目 7件 — 根拠を見る
正吉本・耿紀と許を攻めて王必の陣営を焼いたが討たれた魏書 巻1 §159
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
演直接の記録なし — 司直の職と決起の事績から推定第69回 §29
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
演国に報いる心はあるが賊を討つ計略はないと述べた第69回 §29
正直接の記録なし — 司直の職から推定魏書 巻1 §159
演直接の記録なし — 司直の職と決起の事績から推定第69回 §29
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
演直接の記録なし — 司直の職と決起の事績から推定第69回 §29
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
演直接の記録なし — 司直の職と決起の事績から推定第69回 §29
正直接の記録なし — 司直として反乱に加わった記録のみ魏書 巻1 §159
演直接の記録なし — 司直の職と決起の事績から推定第69回 §29
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。