正董卓の遷都の際、四方が乱れるのを見て、司馬朗に家族を連れて郷里へ帰らせた魏書 巻15 §17
司馬防
人物紹介
司馬防は司馬朗の父である。陳寿の本文に彼の名は一度しか出てこない。董卓が天子を長安に移したとき、治書御史であった彼は西へ移らねばならなかったが、四方が雲のように乱れているのを見て、司馬朗に家族を率いて郷里の県へ帰らせた。 正史 魏書 巻15 §17
演義では第39回、曹操が司馬懿を文学掾とする場面で、司馬懿を「京兆尹司馬防の子」と紹介するところに初めて登場し、全120回のうち2回に登場する。回目に名が入った回はない。第119回では、司馬炎が建てた七廟の系譜に、司馬雋の子であり宣帝司馬懿の父として挙げられる。 演義 第39回 §21演義 第119回 §47
正史の記録
司馬防の事績は、息子司馬朗の伝(魏書巻15劉司馬梁張温賈伝)に記されている。董卓が天子を長安に移して都とし、自らはそのまま洛陽に留まったとき、司馬朗の父司馬防は治書御史であったので西へ移らねばならなかった。司馬防は四方が雲のように乱れているのを見て、司馬朗に家族を率いて郷里の県へ帰らせた。 正史 魏書 巻15 §17
ところが司馬朗が逃亡しようとしていると告発した者がいて、司馬朗は捕らえられて董卓のもとに引き出された。司馬朗は董卓の前で言い終えたのち、董卓が必ず滅びることを知り、引き留められるのを恐れて、財物を散じて董卓のもとで権勢を握る者たちに賄賂を贈り、郷里に帰ることを願い出た。 正史 魏書 巻15 §17 · 19
陳寿の本文で司馬防の名が出てくるのはこの一か所だけであり、彼の字・本籍・他の官職・死は記されていない。 正史 魏書 巻15 §15–27
演義の描写
演義と異なる点
官職:演義第39回と第119回は彼を「京兆尹司馬防」と呼ぶ。陳寿の本文は、董卓が長安に遷都したとき彼が治書御史であったと記すだけで、京兆尹は出てこない。 演義 第39回 §21演義 第119回 §47正史 魏書 巻15 §17
家系:演義第39回と第119回は司馬防を司馬雋の子で司馬懿の父と記す。陳寿の本文で司馬防は「司馬朗の父」として出てくるだけで、司馬雋・司馬懿との関係は記されていない。 演義 第39回 §21演義 第119回 §47正史 魏書 巻15 §17
董卓の時の事:演義には、董卓の長安遷都のとき司馬防が司馬朗に家族を率いて郷里に帰らせた事は出てこない。正史では、この事のために司馬朗が逃亡しようとしていると告発され、董卓のもとに引き出された。 演義 第39回 §21演義 第119回 §47正史 魏書 巻15 §17
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力4540−5
- 政治4545±0
- 魅力4040±0
- 徳4545±0
- 処世5842−16
- 文芸4042+2
- 弁舌3538+3
- 用人4040±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
近い項目 9件 — 根拠を見る
正直接の記録なし — 治書御史の経歴から推定魏書 巻15 §17
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正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。