演義の場面
曹阿瞞兵退斜谷
事件紹介
「曹阿瞞兵退斜谷」は、演義第72回の回目「諸葛亮智取漢中 曹阿瞞兵退斜谷」の後半の場面であり、漢中の戦いの終わりの段である。陽平関を捨てて逃げた曹操は曹彰を得て斜谷の入り口にとどまるが、進むことも退くこともできず、「鶏肋」という合言葉を解いて荷造りをした楊脩を軍心を乱したとして斬ったのち、魏延の矢に前歯を二本折られてようやく兵を返す。 演義 第72回 §19–28 · 38–39
陳寿の本文はこの退却を短く記す。武帝紀は、建安24年(219)3月に曹操が長安から斜谷を出て陽平に至ったが、劉備が険しい地勢に拠って防ぎ守ったので、夏5月に軍を率いて長安へ帰ったと記し、先主伝は、曹操は数か月たっても勝てず、逃亡する者が日ごとに増えて夏に帰ったという。 正史 魏書 巻1 §166–167正史 蜀書 巻2 §39
演義の描写
演義第72回で、陽平関に退いた曹操は兵糧を迎えに許褚を遣わすが、許褚は酒に酔って夜道を褒州へ入り、張飛の槍に肩を突かれて兵糧の車をすべて奪われる。劉封の偽りの敗走を追った曹操は四方の砲声に驚いて退き、蜀軍が陽平関の四つの門に火を放って太鼓を鳴らすと関を捨てて逃げる。張飛・趙雲・黄忠に次々と追われた曹操は、斜谷の入り口で次男の曹彰に出会う。 演義 第72回 §14–20
演義は、曹彰が建安23年(218)代郡の烏桓を討って北方を平定し、曹操が陽平で敗れたと聞いて助けに来たとする。「我が黄鬚児」を得た曹操は斜谷の入り口に陣営を築き、曹彰は三合で劉封を退け、戟で呉蘭を突き殺す。しかし馬超の兵が攻め込んで曹操の軍は敗れ、進めば馬超が阻み、退けば蜀軍の嘲笑が恐ろしく、曹操はためらう。 演義 第72回 §21–24
鶏肋の汁物を見ていた曹操が夜の合言葉を「鶏肋」とすると、行軍主簿楊脩は、食べるには肉がなく捨てるには味があるという意味だから魏王はまもなく兵を退くだろうと言って荷造りをし、夏侯惇と諸将も同じようにする。これを見た曹操は、楊脩が言葉をこしらえて軍心を乱したとして首を斬り、轅門の外に掛ける。演義は、楊脩が才を頼んで曹操の意をたびたび言い当て、曹植を助けて憎まれており、曹操はすでに殺す気持ちを抱いていてこの罪を借りたのだと説明する。楊脩は三十四歳であった。 演義 第72回 §25–35
翌日、斜谷の入り口を出た曹操は魏延と出くわし、馬超が陣営を急襲する間、高い丘で戦いを見ていて魏延の矢に当たって落馬する。龐徳が魏延を退けて救ったが、矢が人中に当たって前歯を二本折った曹操は、そこで初めて楊脩の言葉を思い出して遺体を手厚く葬り、龐徳に殿を務めさせて兵を返す。 演義 第72回 §37–39
演義と異なる点
退却の経緯:演義第72回で、曹操は鶏肋の一件の後、魏延の矢に前歯を折られてようやく兵を返す。正史武帝紀は、3月に斜谷を出て陽平に至ったが、劉備が険阻な所に拠って守ったので、夏5月に長安へ帰ったとのみ記す。 演義 第72回 §38–39正史 魏書 巻1 §166–167
楊脩の死:演義第72回で、曹操は鶏肋の意味を広めた楊脩を軍心を乱したとして陣中で斬る。正史魏書巻19任城陳蕭王伝の曹植の伝は、太祖が後々の変事を案じていたところ、楊脩が才と策略を備え、しかも袁氏の甥であったので、罪を着せて殺したと記すのみで、漢中のことは記さない。 演義 第72回 §28 · 35正史 魏書 巻19 §16
曹彰と呉蘭:演義第72回で、曹彰は北方を平定した後、斜谷の入り口へ戦いを助けに来て、劉封を退け、呉蘭を突き殺す。正史で曹彰は北方を平定した後、長安の行在所に召されて太祖に会っており、武帝紀は、呉蘭は建安23年(218)3月に陰平の氐の強端が斬ってその首を送ったと記す。 演義 第72回 §22–24正史 魏書 巻19 §7正史 魏書 巻1 §160
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。