何祗
人物紹介
何祗は蜀郡の人で、楊洪が門下書佐として迎えた人物である。才略と事務の能力があって郡吏に推挙され、数年で広漢太守となった。その時楊洪もまだ蜀郡にいた。このことから、西方の人々は皆、諸葛亮が当時の人々の才能を余すところなく用いることができると感服した。 正史 蜀書 巻13 §46正史 蜀書 巻11 §37
広漢太守であった時、寛大で手厚いという評判があった。日ごろ疎遠であった張嶷が重病になると、自ら車に乗せられてやって来て治療を頼み、何祗は財産を傾けて治療してやり、数年で病は癒えた。 正史 蜀書 巻13 §46–47
陳寿の本文には独立した伝はなく、蜀書巻11霍王向張楊費伝で楊洪の記事のあとに付された「何祗」の節と、巻13の張嶷の伝に登場するのみである。彼の字とその後の事績、死は記されておらず、両巻の評にも名がない。演義には登場しない。 正史 蜀書 巻11 §36–37 · 50正史 蜀書 巻13 §46–47 · 65
正史の記録
先主が漢中を争ったとき、蜀郡太守法正が先主に従って北へ行ったので、諸葛亮は上表して楊洪に蜀郡太守を兼ねさせ、万事がうまく処理されると正式に任命させた。 正史 蜀書 巻11 §28–29
楊洪が門下書佐として迎えた何祗は、才略と事務の能力があって郡吏に推挙され、数年で広漢太守となった。その時楊洪もまだ蜀郡にいた。このため西方の人々は皆、諸葛亮が当時の人々の才能を余すところなく用いることができると感服した。 正史 蜀書 巻11 §37
建興5年(227)、丞相諸葛亮が北へ行って漢中に駐屯していたとき、広漢郡綿竹県の山賊張慕らが軍需物資を略奪すると、都尉張嶷がこれを討伐して平定した。のちに張嶷は病を得て非常に重くなったが、家はもともと貧しかった。 正史 蜀書 巻13 §45–46
広漢太守で蜀郡の人である何祗は寛大で手厚いと評判であり、張嶷は日ごろ彼と疎遠であったが、自ら車に乗せられて何祗を訪ね、病の治療を頼んだ。何祗は財産を傾けて治療してやり、張嶷は数年で病が癒えた。 正史 蜀書 巻13 §46–47
陳寿の本文は何祗の字とその後の事績、死を記していない。巻11末尾の評は楊洪について心をひたすら忠誠と公正に置いたと述べ、巻13末尾の評は張嶷について見識と決断が明快で果断であったと述べるだけで、何祗には触れていない。 正史 蜀書 巻11 §37 · 50正史 蜀書 巻13 §46–47 · 65
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率38
- 武力31
- 知力55
- 政治62
- 魅力55
- 徳62
- 処世45
- 文芸38
- 弁舌40
- 用人40
項目別の根拠
正直接の記録なし — 広漢太守の職から推定蜀書 巻11 §37
正直接の記録なし — 広漢太守の職から推定蜀書 巻11 §37
正才略と事務の能力があったと記録される蜀書 巻11 §37
正郡吏に推挙され、数年で広漢太守となった蜀書 巻11 §37蜀書 巻13 §46
正疎遠であった張嶷も重病の際に訪ねて身を託した蜀書 巻13 §46
正寛大で手厚いと評判であった蜀書 巻13 §46
正直接の記録なし — 広漢太守の職から推定蜀書 巻11 §37
正直接の記録なし — 広漢太守の職から推定蜀書 巻11 §37
正直接の記録なし — 広漢太守の職から推定蜀書 巻11 §37
正直接の記録なし — 広漢太守の職から推定蜀書 巻11 §37
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 蜀 · 正史 · 正史 巻41 「舉郡吏,數年為廣漢太守」