劉雄
人物紹介
劉雄は劉備の祖父である。正史には独立した伝がなく、蜀書巻2の先主伝の冒頭に一度出てくる。孝廉に推挙されて官は東郡の范令に至り、陳寿の本文は彼の字と生没年を記していない。 正史 蜀書 巻2 §2
演義では第1回に玄徳の祖父として初めて名が出て、120回のうち第1・20回の2回に登場し、回目に名が入った回はない。第20回では劉備が献帝の前で自らを「劉雄の孫、劉弘の子」と明かし、宗正卿が読み上げる世譜に「東郡范令劉雄」として現れる。 演義 第1回 §15演義 第20回 §4 · 6
正史の記録
先主伝は、劉備が涿郡涿県の人で、漢の景帝の子である中山靖王劉勝の末裔であると記す。劉勝の子劉貞は元狩6年(前117)に涿県陸城亭侯に封じられたが、酎金の件に連座して侯位を失い、そのままその地に家を構えた。 正史 蜀書 巻2 §2
劉備の祖父は劉雄、父は劉弘で、代々州郡に仕えた。劉雄は孝廉に推挙されて官は東郡の范令に至った。劉備は幼くして父を亡くし、母とともに履を売り筵を織って生業とした。 正史 蜀書 巻2 §2–3
陳寿の本文で劉備の祖父劉雄が出てくるのはこの一節だけであり、劉貞から劉雄までの系譜と劉雄の字、生まれた年と死んだ年は記されていない。 正史 蜀書 巻2 §2
演義の描写
演義第1回は劉備を紹介して、劉勝の子劉貞が漢の武帝の時に涿鹿亭侯に封じられたが、祭祀に納める金をきちんと納めなかった罪で爵位を失い、この一枝が涿県に残ったと言う。玄徳の祖父は劉雄、父は劉弘で、劉弘は孝廉に推挙されて官吏を務めたが早くに世を去ったと記す。 演義 第1回 §15
第20回、曹操が劉備の軍功を上奏して献帝に謁見させると、献帝は劉備を殿上に召して祖先は誰かと問う。劉備は、自分は中山靖王の末裔で孝景皇帝の玄孫であり、劉雄の孫、劉弘の子であると奏上する。 演義 第20回 §4
献帝が宗族の世譜を取り寄せて宗正卿に読み上げさせると、孝景皇帝の子中山靖王劉勝から続く系譜は「劉恵は東郡范令劉雄を生む。劉雄は劉弘を生む。劉弘は仕えず。劉備はすなわち劉弘の子である」で終わる。世譜の世代を数えると劉備は献帝の叔父にあたり、献帝は叔父と甥の礼を整えたのち、彼を左将軍・宜城亭侯とする。このときから人々は劉備を劉皇叔と呼ぶ。 演義 第20回 §4–7
演義と異なる点
劉雄の父:演義第20回の世譜は劉雄を済川侯劉恵の子と記す。正史の先主伝は劉貞以後劉雄までの系譜を記さない。 演義 第20回 §6正史 蜀書 巻2 §2
孝廉に推挙された人:演義第1回は劉備の父劉弘が孝廉に推挙されて官吏を務めたと言い、第20回の世譜は劉弘が仕えなかったと言う。正史の先主伝で孝廉に推挙されて范令に至ったのは祖父の劉雄であり、劉雄と劉弘は代々州郡に仕えた。 演義 第1回 §15演義 第20回 §6正史 蜀書 巻2 §2
劉貞の封爵:演義第1回は劉貞が漢の武帝の時に「涿鹿亭侯」に封じられたと言い、第20回の世譜は「陸城亭侯」とする。正史の先主伝は元狩6年に涿県陸城亭侯に封じられたと記す。 演義 第1回 §15演義 第20回 §5正史 蜀書 巻2 §2
皇帝の前で明かした系譜:演義第20回で劉備は献帝の前で自分が劉雄の孫であると奏上し、世譜が読み上げられて皇叔と認められる。正史の先主伝は、劉備が曹操に従って許都に戻り、左将軍となって曹操からいっそう手厚い礼遇を受けたと記すだけで、献帝の前で系譜を明かしたことはない。 演義 第20回 §4–7正史 蜀書 巻2 §14 · 1–76
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3333±0
- 武力3131±0
- 知力4038−2
- 政治4845−3
- 魅力4038−2
- 徳4842−6
- 処世4040±0
- 文芸4038−2
- 弁舌3535±0
- 用人3535±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。