丁夫人
| 職業 | 正演后妃 · 夫人 | 所属 | |
|---|---|---|---|
| 登場 | 正演 | 収録 | |
| 実在 | 実在 | 言及 | 正3回 |
人物紹介
丁夫人は曹操の夫人である。正史には独立した伝がなく、魏書巻5后妃伝の武宣卞皇后の箇所に一度登場する。建安の初めに丁夫人が廃されると、曹操は卞后をその後を継ぐ正室とした。 正史 魏書 巻5 §9
陳寿の本文は彼女の出身や子、廃された理由と死を記しておらず、彼女を評してもいない。演義では第68回の1回だけに子のない曹操の正室として登場し、名が回目に入った回はない。演義は、建安21年(216)に曹操が魏王となったのち丁夫人を退け、卞氏を魏王后に立てたと記す。 正史 魏書 巻5 §9演義 第68回 §28–29
正史の記録
后妃伝によれば、卞后は琅邪開陽の人で、もとは倡家の出であったが、20歳のとき曹操が譙で迎えて妾とした。董卓が乱を起こして曹操が微服で東へ脱出し、袁術が曹操が死んだという凶報を伝えると、洛陽に来ていた曹操の側近たちはみな帰ろうとした。卞后は曹君の生死はまだわからないと言って彼らを止め、曹操はこれを聞いて立派だと思った。 正史 魏書 巻5 §8–9
建安の初めに丁夫人が廃されると、曹操はついに卞后を継室とした。曹操は母のいない諸子をみな卞后に育てさせた。卞后は建安24年(219)に王后となり、その策文は、卞氏は諸子を慈しみ育てて母としての徳を備えていると述べた。 正史 魏書 巻5 §9 · 11
陳寿の本文で丁夫人が登場するのはこの一行だけである。彼女の出身や子、廃された理由とその後のこと、死は記されておらず、彼女に対する評もない。 正史 魏書 巻5 §9
演義の描写
演義第68回で、建安21年(216)夏5月、群臣が献帝に上表して魏公曹操を称え、爵位を進めて王とすべきだと述べると、献帝は鍾繇に詔の草稿を書かせて曹操を魏王に冊立する。曹操は偽って三度辞退したのち魏王の爵位を受け、鄴郡に魏王宮を建てて世子を立てることを議論する。 演義 第68回 §28
演義は、このとき曹操の正室丁夫人には子がなかったという。妾の劉氏が生んだ子の曹昂は張繍を征伐したとき宛城で死に、卞氏が生んだ子は丕・彰・植・熊の4人であった。そこで曹操は丁夫人を退け、卞氏を魏王后に立てる。丁夫人はこののち演義に登場しない。 演義 第68回 §29
演義と異なる点
廃された時期:演義第68回では、建安21年(216)に魏王となった曹操が世子を立てることを議論するときに丁夫人を退ける。正史の后妃伝では、建安の初めに丁夫人が廃された。 演義 第68回 §28–29正史 魏書 巻5 §9
卞氏の地位:演義第68回では、丁夫人を退けるとすぐに卞氏を魏王后に立てる。正史の后妃伝では、建安の初めに丁夫人が廃されると卞后を継室とし、卞后を王后としたのは建安24年(219)である。 演義 第68回 §29正史 魏書 巻5 §9 · 11
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能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率3131±0
- 武力3131±0
- 知力3538+3
- 政治3333±0
- 魅力3840+2
- 徳4548+3
- 処世3335+2
- 文芸3535±0
- 弁舌3335+2
- 用人3333±0
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。