演義の場面

魏主拆取承露盤

事件紹介

この場面は演義第105回の回目「魏主拆取承露盤」の場面で、魏の明帝曹叡が宮殿を大いに造営し、長安の柏梁台の銅人と承露盤を洛陽へ移させるくだりである。演義はこれを蜀漢の建興13年、すなわち魏の青龍3年(235)の事とし、諫言を退けた曹叡が毛皇后に死を賜るところまで続けて描く。 演義 第105回 §35 · 40–42 · 50

陳寿の本文に承露盤を移した記事はない。魏書巻3明帝紀は洛陽宮の造営と楊阜・高堂隆の諫言を記し、巻25に収める二人の伝はその上疏を、巻5后妃伝は毛皇后が死を賜った事を記す。 正史 魏書 巻3 §43正史 魏書 巻25 §53–57 · 82正史 魏書 巻5 §47

演義の描写

演義第105回で、三国がいずれも兵を起こさなかった年、曹叡は司馬懿を太尉とした後、許昌と洛陽に朝陽殿・太極殿・総章観など高さ10丈の宮殿や楼閣を建てさせ、博士馬鈞に工事を監督させる。腕のよい工匠3万余人と人夫30余万人が昼夜働き、怨嗟の声がやまない。芳林園で公卿たちに土を背負わせ木を植えさせると、司徒董尋は諫めて庶人とされ、太子舎人張茂は諫めて斬られる。 演義 第105回 §35–39

神仙と往来して長生きすることを望む曹叡に、馬鈞は漢の武帝が長安の柏梁台の上で銅人が捧げ持つ承露盤により夜露を受けて飲んだと奏上する。馬鈞が1万人を率いて行き銅人を引き下ろすと、銅人の目から涙が流れ、狂風の中で台が傾き柱が倒れて千余人が下敷きになって死ぬ。重さ百万斤で運べなかった銅柱は砕いて洛陽へ運び、翁仲と呼ぶ銅人二体と、高さ4丈の竜、3丈余りの鳳凰を鋳造する。 演義 第105回 §39–43

少傅楊阜が桀・紂・秦の始皇帝の例を挙げて諫めるが、曹叡は顧みずに承露盤を安置させ、天下の美女を選んで芳林園に入れる。郭夫人を寵愛する曹叡は、春3月の芳林園での花見の席を毛皇后に知らせるなと命じていたが、翌日毛皇后が「昨日は北園でお遊びになり、その楽しみは少なくなかったでしょう」と言うと、仕えた者たちをすべて斬り、毛皇后に死を賜ったうえで郭夫人を皇后に立てる。 演義 第105回 §44–50

演義と異なる点

諫言への処分:演義第105回では董尋は庶人とされ、張茂は斬られ、楊阜の表は曹叡が顧みない。正史明帝紀は楊阜・高堂隆らが何度も諫めたが、聞き入れることはできなくとも常に寛大に容れたとし、楊阜伝は天子がその忠言に感じ入り、自ら筆を執った詔で答えたと記す。 演義 第105回 §39 · 46正史 魏書 巻3 §43正史 魏書 巻25 §57

毛皇后の死:演義第105回はこの事を建興13年の話の中の「この年の春3月」に置く。正史后妃伝は景初元年(237)の事として記し、明帝が左右が話を漏らしたとして十余人を殺した後に皇后に死を賜ったが、なお諡を加えて愍陵に葬ったという。 演義 第105回 §35 · 47–50正史 魏書 巻5 §47

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (3)