王戎
| 職業 | 正演武将 · 建威将軍 | 所属 | |
|---|---|---|---|
| 登場 | 正演 | 収録 | |
| 実在 | 実在 | 言及 | 正7回 |
人物紹介
王戎は晋の建威将軍である。呉の天紀3年(279)冬、晋が数方面から兵を出して呉を攻めたとき、武昌へ向かう軍を任された。 正史 呉書 巻3 §72 · 74 · 78
正史には彼の伝がなく、陳寿の本文では呉書三嗣主伝のこの一節にのみ名が見える。陳寿は彼の字・出身・その後の事績を記していない。演義には第120回にだけ登場し、晋主の命により建威将軍として武昌へ進み、孫皓が降伏した後に琅邪王司馬伷とともに大軍を率いて到着する。回目に名が挙がることはない。 正史 呉書 巻3 §78演義 第120回 §33 · 57
正史の記録
三嗣主伝によれば、天紀3年(279)冬、晋は鎮東大将軍司馬伷を涂中へ、安東将軍王渾と揚州刺史周浚を牛渚へ、建威将軍王戎を武昌へ、平南将軍胡奮を夏口へ、鎮南将軍杜預を江陵へ向かわせ、龍驤将軍王濬と広武将軍唐彬には長江に沿って東へ下らせた。太尉賈充は大都督となり、状況を見計らって要地に陣取り、全軍の中央に位置した。 正史 呉書 巻3 §72 · 74 · 78
三嗣主伝は、郭馬を討つため西の道を進んでいた呉の徐陵督陶濬が武昌に至ったが、北の軍が大挙して出たと聞いて留まり、進まなかったと記す。翌年3月に陶濬は武昌から戻り、孫皓は迫りくる王濬・司馬伷・王渾に書を送って降伏を請うた。陳寿の本文はそれ以降、王戎の名を再び記さない。 正史 呉書 巻3 §76 · 78 · 81–83
陳寿の本文は王戎の字・出身・年齢を記しておらず、巻末の評も彼に触れない。 正史 呉書 巻3 §78 · 88–90
演義の描写
演義第120回で、晋主は杜預の表を読み張華の勧めを聞いたのち疑いを捨て、鎮南大将軍杜預を大都督として兵10万を率いて江陵へ進ませる。鎮東大将軍の琅邪王司馬伷は涂中へ、安東大将軍王渾は横江へ、建威将軍王戎は武昌へ、平南将軍胡奮は夏口へ、それぞれ兵5万を率いて進み、みな杜預の指揮に従わせる。龍驤将軍王濬と広武将軍唐彬は長江に船を浮かべて東へ下る。 演義 第120回 §31–34
同じ回で江陵を得た杜預が兵を進めて武昌を攻めると、武昌も降伏する。孫皓が王濬の陣営の前に出て降伏した翌日、陶濬の兵は戦わずして自ら崩れ、琅邪王司馬伷と王戎の大軍がともに到着し、王濬が大功を立てたのを見て心中喜ぶ。 演義 第120回 §41–42 · 55 · 57
演義と異なる点
誰の指揮を受けたか:演義第120回では王戎をはじめ諸方面の兵はみな大都督杜預の指揮に従う。正史の三嗣主伝では大都督は太尉賈充であり、杜預は鎮南将軍として江陵へ向かった諸将の一人である。 演義 第120回 §33正史 呉書 巻3 §78
武昌:演義第120回では江陵を得た杜預が兵を進めて武昌を攻め、降伏させる。正史の三嗣主伝は王戎を武昌へ向かわせたとだけ記し、武昌に至った呉の陶濬が北の軍が大挙して出たと聞いて留まって進まず、やがて戻ったという。武昌がどのように晋の手に入ったかは記さない。 演義 第120回 §41–42正史 呉書 巻3 §78 · 83
呉の降伏後:演義第120回で王戎は琅邪王司馬伷とともに大軍を率いて到着し、王濬の功を見て喜ぶ。陳寿の本文にはこのことがなく、孫皓は王濬・司馬伷・王渾に書を送って降伏を請い、王濬が最初に到着して降伏を受ける。 演義 第120回 §57正史 呉書 巻3 §83–85
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。
- 統率5050±0
- 武力4040±0
- 知力4242±0
- 政治4038−2
- 魅力4040±0
- 徳4242±0
- 処世4542−3
- 文芸4038−2
- 弁舌3836−2
- 用人3836−2
演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上
10点以上の差がある項目はありません — 演義も正史とほぼ同じように描いています。
近い項目 10件 — 根拠を見る
正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。