盛憲
人物紹介
盛憲は後漢末に呉郡太守を務めた人物である。正史には独立した伝がなく、陳寿の本文では宗室伝の孫韶の記事に一度登場する。孫権が呉郡太守盛憲を殺したとき、彼が孝廉に推挙した嬀覧と戴員が山中に逃げ隠れたという一節である。 正史 呉書 巻6 §41
嬀覧と戴員はのちに丹楊太守孫翊に招かれて大都督と郡丞となったが、孫翊が害されたのち、自分たちを責めた孫河を殺し、孫翊の配下に殺された。陳寿の本文は盛憲の字と出身、死んだ年を記しておらず、呉書巻6の評も彼に触れていない。演義には登場しない。 正史 呉書 巻6 §41–42 · 52
正史の記録
宗室伝の孫韶の記事は、孫韶の伯父孫河が死んだ経緯を記すなかで、それより前のこととして盛憲に触れている。先に孫権が呉郡太守盛憲を殺したとき、盛憲が孝廉に推挙した嬀覧と戴員は山中に逃げ隠れた。 正史 呉書 巻6 §40–41
孫翊が丹楊太守となると、二人をともに礼をもって招き、嬀覧は大都督となって兵を監督し、戴員は郡丞となった。孫翊伝は、孫権の弟孫翊が建安8年(203)に偏将軍として丹楊太守を兼ねたと記している。 正史 呉書 巻6 §41 · 34
孫翊が害されると、孫河は馬を馳せて宛陵へ行き、嬀覧と戴員がきちんと取り締まれず奸悪な変事を起こさせたと怒って責めた。二人は「伯海(孫河)は将軍と親戚関係も遠いのに、我々をこのように責める。討虜将軍が来でもすれば、我々は一人も残らないだろう」と相談して孫河を殺した。続いて人を北へ送って揚州刺史劉馥を迎えて歴陽にとどまらせ、丹楊をもってこれに呼応しようとしたが、ちょうど孫翊の配下の徐元・孫高・傅嬰らが嬀覧と戴員を殺した。 正史 呉書 巻6 §42
陳寿の本文は、盛憲の字と出身、孫権が彼を殺した時期と理由を記していない。呉書巻6宗室伝の末尾の評は孫氏一族について述べるだけで、盛憲には触れていない。 正史 呉書 巻6 §41 · 52
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率38
- 武力33
- 知力40
- 政治45
- 魅力42
- 徳45
- 処世35
- 文芸40
- 弁舌35
- 用人52
項目別の根拠
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正直接の記録なし — 呉郡太守の職から推定呉書 巻6 §41
正孝廉に推挙した嬀覧と戴員がのちに大都督・郡丞となった呉書 巻6 §41
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。