龐淯

正史 魏 字 子異 Pang YuZiyi방육자이庞淯

プロフィール
職業正文官 · 西海太守所属魏 推定
登場正収録魏書
出生出身地酒泉郡 表氏県
実在実在言及正8回

人物紹介

龐淯は字を子異といい、酒泉郡表氏県の人である。涼州従事として破羌長を代行していたとき、刺史邯鄲商を殺した武威太守張猛が喪に赴く者は殺すと命じたが、官を捨てて駆けつけ、哭礼を終えたのち匕首を懐にして張猛を殺そうとした。 正史 魏書 巻18 §77

太守徐揖の主簿であったとき、郡の人黄昂が反乱して城を包囲すると、夜に城を越えて張掖・敦煌の二郡に急を告げた。徐揖が死ぬとその遺体を本郡へ送り返し、3年間喪に服した。のちに太祖(曹操)の掾属となり、文帝(曹丕)のとき駙馬都尉・西海太守を経て中散大夫となり、死去した。 正史 魏書 巻18 §78–79

正史の魏書巻18二李臧文呂許典二龐閻伝に伝があり、母趙娥の記録が後に付されている。陳寿は評で、彼が剣に伏して死ぬことをためらわず、その誠が隣の郡を感動させたと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻18 §76–81 · 92

正史の記録

龐淯は字を子異といい、酒泉郡表氏県の人である。はじめ涼州従事として破羌長を代行した。ちょうど武威太守張猛が反乱して刺史邯鄲商を殺し、あえて邯鄲商の喪に臨む者があれば死罪として赦さないと命じた。龐淯はこれを聞くと官を捨てて昼夜駆けつけ、喪所で声をあげて哭し終えると、張猛の門へ行き、匕首を懐にして、面会の機に張猛を殺そうとした。張猛は彼が義士であることを知り、命じて帰らせ、殺さなかった。これにより龐淯は忠烈の人として知られた。 正史 魏書 巻18 §77

太守徐揖が彼を主簿に招いた。のちに郡の人黄昂が反乱して城を包囲すると、龐淯は妻子を残し、夜に城を越えて包囲を抜け出し、張掖・敦煌の二郡に急を告げた。二郡が初め疑って兵を出そうとしなかったため、龐淯は剣に伏して死のうとし、二郡はその義に感じてついに彼のために兵を起こした。しかし軍が到着する前に郡の城邑はすでに陥落し、徐揖は死んでいた。龐淯は徐揖の遺体を収めて納棺し、本郡へ送り返して、3年間喪に服したのちにようやく帰った。 正史 魏書 巻18 §78

太祖(曹操)はこれを聞いて彼を掾属に召した。文帝(曹丕)が帝位に即くと駙馬都尉に任じ、西海太守に移して関内侯の爵位を与えた。のちに召されて中散大夫に任じられ、死去した。子の龐曾が後を継いだ。 正史 魏書 巻18 §79

張既伝によれば、雍州・涼州の二州を十余年にわたって治めた張既が礼をもって招き用いた扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、敦煌の張恭、周生烈らは、最後にはみな名声と地位を得た。 正史 魏書 巻15 §55

龐淯伝の後には母趙娥の記録が付されている。かつて龐淯の外祖父趙安が同じ県の李寿に殺されたが、龐淯の母方のおじ兄弟3人が同時に病死すると、李寿の家は喜んだ。趙娥は父の仇を討てずにいることを自ら悲しみ、帷を垂らした車に乗って袖に剣を隠し、白昼に都亭の前で李寿を刺した。事を終えると悠然と県へ赴き、顔色ひとつ変えず、父の仇はすでに討ったので刑を受けさせてほしいと言った。禄福長の尹嘉は印綬を解いて趙娥を放とうとし、趙娥が立ち去ろうとしないので、無理に車に乗せて家へ帰した。ちょうど恩赦があって免れ、州郡は感嘆してこれを貴び、石に刻んでその村の門に表彰した。 正史 魏書 巻18 §80–81

陳寿は巻18末尾の評で、龐淯が剣に伏して死ぬことをためらわず、その誠が隣の郡を感動させたと述べた。 正史 魏書 巻18 §92

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率40
  • 武力45
  • 知力40
  • 政治48
  • 魅力62
  • 徳88
  • 処世52
  • 文芸38
  • 弁舌58
  • 用人38
各項目100点

項目別の根拠

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 推定 · 正史

家族

父母趙娥 正史

Wikidataの歴史・演義人物項目に基づく。推定バッジのない関係は正史原文でも確認済み。