戦い
高句麗・魏戦争 曹魏與高句麗的戰爭
事件紹介
高句麗・魏戦争は、正始年間に魏の幽州刺史毌丘倹が、たびたび侵攻し背いた高句麗を討ってその都を破った戦いである。毌丘倹は歩騎1万で玄菟へ出て、沸流水のほとりの梁口で高句麗王宮が率いる2万を破り、丸都に登って都を屠り、正始6年(245)には再び攻めて、逃げた宮を玄菟太守王頎に沃沮の先、粛慎の南の境まで追わせた。 正史 魏書 巻28 §16–17
陳寿はこの戦いを魏書巻28王毌丘諸葛鄧鍾伝の毌丘倹の条に詳しく記し、巻30烏丸鮮卑東夷伝の高句麗・東沃沮・夫余の条と巻4三少帝紀にも載せた。巻によって年が食い違い、高句麗の条は正始5年(244)に宮が毌丘倹に破られたとし、三少帝紀は正始7年(246)春2月の事として記す。演義にはこの戦いは出てこない。 正史 魏書 巻28 §16–18正史 魏書 巻30 §41 · 59 · 66–67正史 魏書 巻4 §19
正史に見る経過
高句麗王宮は名を位宮といったが、曽祖父の宮に似ているとしてつけられた名であった。景初2年(238)、司馬懿が公孫淵を討った時、宮は主簿と大加に数千人を与えて魏軍を助けさせたが、正始3年(242)には西安平を荒らした。毌丘倹は青龍年間に幽州刺史・度遼将軍となって遼東征伐の先頭に立ち、公孫淵平定の功で安邑侯となった人である。 正史 魏書 巻30 §58–59正史 魏書 巻28 §14–15
正始年間、毌丘倹は高句麗がたびたび侵攻し背いたため、諸郡の歩騎1万を率いて玄菟へ出て、いくつもの道に分かれて討った。宮は歩騎2万を率いて沸流水のほとりへ出て梁口で大いに戦ったが、続けざまに敗れて逃げ、毌丘倹は馬を束ね車を懸けて険しい道を越え、丸都に登って高句麗の都を屠り、斬首・捕虜は千をもって数えた。宮にたびたび諫言した沛者の得来は、この地にまもなく蓬蒿が生い茂るだろうと嘆いて食を断って死んだが、毌丘倹はその墓を壊さず木を伐らないよう命じ、妻子を放してやった。宮は妻子だけを連れて逃げた。 正史 魏書 巻28 §16–17
正始6年(245)、毌丘倹が再び攻めると、宮は買溝へ逃げた。毌丘倹は玄菟太守王頎を遣わして追わせ、王頎は沃沮を過ぎて千余里を進み、粛慎氏の南の境に至った。毌丘倹は石に功績を刻み、丸都の山と不耐城に銘を刻んだ。誅殺または降伏させた者は合わせて8千余人、功によって侯となった者は百余人であった。東沃沮の条は、宮が沃沮へ逃げると魏軍が沃沮の邑落をことごとく破って3千余人を斬首・捕虜とし、宮がさらに北沃沮へ逃げると、王頎が別に追ってその東の境の果てまで至ったと記す。 正史 魏書 巻28 §17–18正史 魏書 巻30 §66–67
夫余の条は、毌丘倹が高句麗を討った時に王頎を夫余へ遣わすと、夫余王位居が大加を遣わして郊外で迎え、軍糧を供したと記す。三少帝紀は、正始7年(246)春2月に毌丘倹が高句麗を討ち、夏5月に濊貊を討ってともに破り、韓の那奚ら数十国がそれぞれ種落を率いて降伏したと記す。 正史 魏書 巻30 §41正史 魏書 巻4 §19
陳寿は東夷伝の冒頭で、高句麗が背くと偏師を遣わして遠く果てまで追い、沃沮を過ぎて粛慎の王庭を踏み、東は大海に臨んだのであり、この途上で諸国をくまなく見てその法と風俗を集め、先の史書が備えていなかったところを補うと述べた。高句麗の条は、宮が正始5年(244)に毌丘倹に破られたとして、「語は倹伝に在り」と付け加える。 正史 魏書 巻30 §33 · 59
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交戦勢力
| 区分 | 甲 | 乙 |
|---|---|---|
| 勢力 | 魏 | |
| 指揮官 | 毌丘倹, 王頎 | |
| 兵力 | 督諸軍步騎萬人 | 宮將步騎二萬人 |
| 死傷者 | 斬獲首虜以千數 |
勢力・指揮官・兵力・死傷者は原文と照合(3KDEX)。兵力・死傷者は原文に記された数値のみ掲載。 出典:魏書 巻28 §16