曹肇
人物紹介
曹肇は魏の大司馬曹休の子で、父が死ぬと後を継いだ。当世に優れた才能と度量があり、散騎常侍・屯騎校尉となった。 正史 魏書 巻9 §58–60
景初2年(238)に明帝が病に伏すと、燕王曹宇らとともに政治を補佐する者に挙げられた。しかし皇帝の意が変わって曹爽だけを召して詔を受けさせ、曹肇は官職を罷免されて侯として邸に帰った。正始年間に死去し、衛将軍を追贈された。 正史 魏書 巻14 §150–151 · 153正史 魏書 巻9 §60
正史では魏書巻9諸夏侯曹伝の曹休の伝の末尾に短い記録が付され、明帝臨終の時のことは巻14の劉放の伝に載っている。演義には登場しない。 正史 魏書 巻9 §59–60正史 魏書 巻14 §151–153
正史の記録
曹休は太祖の族子で、大司馬に上った。太和2年(228)、明帝が二道から呉を征伐した時、諸軍を率いて尋陽へ向かったが、敵将が偽って降伏したため深く入り込み、戦いが不利となって石亭に退いた。曹休はこのことで背に腫れ物ができて死に、子の曹肇が後を継いだ。 正史 魏書 巻9 §54 · 58–59
曹肇は当世に優れた才能と度量があり、散騎常侍・屯騎校尉となった。かつて文帝は曹休の戸三百を分けて曹肇の弟曹纂を列侯に封じたが、曹纂はのちに殄呉将軍となり、死後に前将軍を追贈された。 正史 魏書 巻9 §60
景初2年(238)、遼東が平定されたその年に明帝が病に伏すと、燕王曹宇を大将軍とし、領軍将軍夏侯献・武衛将軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎将軍秦朗とともに政治を補佐させようとした。曹宇が真心から固く辞退すると、皇帝は劉放と孫資を寝室の中に呼んで、燕王は本当にそうなのかと尋ね、二人は、燕王は自ら大任に堪えないことを知っているからだと答えた。 正史 魏書 巻14 §150–151
皇帝が曹爽は曹宇に代われるかと尋ねると、劉放と孫資はこれに賛成し、急いで太尉司馬宣王を召して皇室の綱紀を整えさせるべきだと懇切に申し上げた。皇帝は劉放に詔を書かせたが、二人が退出すると意がまた変わり、宣王を来させないようにした。まもなく再び二人に会った皇帝は「わしは自ら太尉を召そうとしたのに、曹肇らがかえってわしにそれを止めさせ、危うくわしの事を誤るところだった」と言った。 正史 魏書 巻14 §152
皇帝は改めて詔を書かせ、曹爽だけを召して劉放・孫資とともに詔命を受けさせたのち、曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗の官職を罷免した。太尉も到着して寝台に上って詔を受け、そののち皇帝は崩じた。曹休の伝はこのことを、皇帝の意がまもなく変わり、詔によって曹肇を侯として邸に帰らせたと記す。 正史 魏書 巻14 §153正史 魏書 巻9 §60
曹肇は正始年間に死去して衛将軍を追贈され、子の曹興が後を継いだ。陳寿の本文は彼の没年を記していない。 正史 魏書 巻9 §60
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率40
- 武力38
- 知力42
- 政治40
- 魅力40
- 徳40
- 処世30
- 文芸38
- 弁舌40
- 用人40
項目別の根拠
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正司馬宣王を召さないよう明帝に止めさせた魏書 巻14 §152
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正劉放・孫資に押し切られ、詔によって官職を罷免された魏書 巻14 §152魏書 巻14 §153
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正直接の記録なし — 屯騎校尉として輔政の顔ぶれに挙げられたことから推定魏書 巻14 §151
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。