何曼

正史演義 He Man하만

プロフィール
職業正君主 演武将所属
登場正演収録
死因演戦死 推定
実在実在言及正1回

人物紹介

何曼は汝南と潁川の黄巾の衆を率いた人物である。正史には独立した伝がなく、魏書巻1武帝紀に何儀・劉辟・黄邵と並んで一度名が見える。彼らはそれぞれ衆数万で、はじめは袁術に呼応し、ついで孫堅に付き、建安元年(196)2月に太祖(曹操)の討伐を受けた。陳寿の本文は、何曼の字と出身、その後の事績と死を記していない。 正史 魏書 巻1 §36 · 38

陳寿は巻1の評で太祖を論じただけで、何曼は取り上げていない。演義では第12回に、黄邵が率いて来た軍勢の中から「截天夜叉」と自称して徒歩で進み出て戦いを挑む将として登場し、曹洪と4、50合戦ったすえ、曹洪の計略にかかって斬られる。全120回のうちこの1回にのみ登場し、回目に名が入った回はない。 正史 魏書 巻1 §173演義 第12回 §25–26

正史の記録

武帝紀によれば、汝南と潁川の黄巾の何儀・劉辟・黄邵・何曼らはそれぞれ衆数万で、はじめは袁術に呼応し、ついで孫堅に付いた。建安元年(196)2月、太祖は軍を進めてこれを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬ったので、何儀とその衆はみな降伏した。 正史 魏書 巻1 §36 · 38

于禁の伝は同じ討伐を次のように記す。于禁は太祖に従って黄巾の劉辟・黄邵らを征討して版梁に駐屯したが、黄邵らが夜に太祖の陣営を襲うと、麾下を率いて撃ち破り、黄邵らを斬ってその衆をことごとく降伏させた。この記録には何曼の名は見えない。 正史 魏書 巻17 §28

陳寿の本文で何曼の名が見えるのは武帝紀のこの一節だけである。斬られた者として名が記されているのは劉辟と黄邵、降伏した者として記されているのは何儀とその衆であり、何曼がどうなったかは名を挙げて明らかにしていない。陳寿は巻1の評で太祖を論じただけで、何曼は取り上げていない。 正史 魏書 巻1 §38 · 173

演義の描写

演義第12回で曹操は、凶作で兵糧が足りないため、東に陳の地を攻略して兵を汝南と潁川で食にありつかせようという荀彧の言に従う。荀彧は、黄巾の残党の何儀・黄邵らが州郡を荒らして金銀・絹帛と兵糧を多く持っており、破るのはたやすいと言う。曹操は夏侯惇と曹仁に鄄城などを守らせ、陳の地を経て汝南と潁川に至り、迎え撃ちに出た何儀・黄邵と羊山で出会う。 演義 第12回 §23–24

翌日、黄邵がみずから軍を率いて来ると、頭に黄色い頭巾を巻き、身に緑の上着をまとい、手に鉄棒を提げた一人の将が徒歩で進み出て、「我こそは截天夜叉の何曼だ!誰か我と戦う者はいるか」と大声で叫ぶ。曹洪はこれを見て一声大喝すると、馬を下りて刀を提げて徒歩で進み出て、二人は陣の前で4、50合戦うが勝負がつかない。 演義 第12回 §25

曹洪が偽って敗れたふりをして逃げると、何曼が追う。曹洪は刀を引きずって背後へ斬りつける計略を用い、身をひるがえして何曼を斬り、さらに一刀で殺す。李典がその勢いに乗じて賊の陣に突入して黄邵を生け捕りにし、何儀は騎兵数百を率いて葛陂へ逃れる。演義で何曼の名が見えるのはこの二節だけである。 演義 第12回 §26

演義と異なる点

地位:演義第12回で何曼は、黄邵が率いて来た軍勢の中から徒歩で進み出て戦いを挑む将として登場する。正史の武帝紀で何曼は、何儀・劉辟・黄邵と並んで名が記された汝南・潁川の黄巾であり、彼らはそれぞれ衆数万であった。 演義 第12回 §25正史 魏書 巻1 §38

袁術と孫堅:正史の武帝紀は、これらの黄巾がはじめ袁術に呼応し、ついで孫堅に付いたと記す。演義第12回は荀彧の言として、彼らを州郡を荒らす黄巾の残党と言うだけで、袁術・孫堅との関係は記さない。 正史 魏書 巻1 §38演義 第12回 §23

曹洪との戦い:演義第12回で何曼はみずから「截天夜叉」と名乗り、曹洪と徒歩で4、50合戦う。正史の武帝紀にはこの異名も、曹洪との戦いもない。同じ年の武帝紀の記事では、曹洪は天子を迎えるため兵を率いて西へ向かったが、衛将軍の董承と袁術の将に阻まれて進めなかった。 演義 第12回 §25正史 魏書 巻1 §37–38

死:演義第12回で何曼は曹洪の計略にかかって斬られる。正史の武帝紀は、この討伐で劉辟・黄邵らを斬り、何儀とその衆が降伏したと記すのみで、何曼がどうなったかは明らかにしていない。 演義 第12回 §26正史 魏書 巻1 §38

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

正史(陳寿『三国志』本文)の点数が基準です。演義が同じ人物をどう描き直したかを項目ごとに比べ、二つの原典の根拠で違いを説明します。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史(実線) 対 演義(点線)
  • 統率4538−7
  • 武力4266+24
  • 知力3028−2
  • 政治3131±0
  • 魅力4535−10
  • 徳3535±0
  • 処世3531−4
  • 文芸3131±0
  • 弁舌3131±0
  • 用人3131±0
正史・演義の点数と差(演義 − 正史・左 = 演義が下げた・右 = 演義が上げた)

演義が作った能力値 — 正史と異なる点 差が10点以上

武力正42推定演66 +24

正直接の記録なし — 黄巾賊の頭目としての役割から推定魏書 巻1 §38

演鉄棒で曹洪と4、50合戦って勝負がつかなかった第12回 §25

魅力正45演35推定 −10

正数万の衆が従った魏書 巻1 §38

演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

近い項目 8件 — 根拠を見る
  • 統率正45演38推定 −7

    正汝南・潁川の黄巾賊として数万の衆を率いた魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

  • 知力正30推定演28 −2

    正直接の記録なし — 黄巾賊の頭目としての役割から推定魏書 巻1 §38

    演曹洪の偽りの敗走を追い、振り向きざまの一刀に斬られた第12回 §26

  • 政治正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 黄巾賊の頭目としての役割から推定魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

  • 徳正35演35推定 ±0

    正袁術に呼応したのち、また孫堅に付いた魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

  • 処世正35演31推定 −4

    正袁術と孫堅の間を渡り歩いたが、曹操に討伐された魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

  • 文芸・学術正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 黄巾賊の頭目としての役割から推定魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

  • 弁舌・外交正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 黄巾賊の頭目としての役割から推定魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

  • 識人・用人正31推定演31推定 ±0

    正直接の記録なし — 黄巾賊の頭目としての役割から推定魏書 巻1 §38

    演直接の記録なし — 黄巾賊の将としての役割から推定第12回 §25

正史 演義 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

演義の登場回(1回)

登場登場なし 登場回の一覧 →

所属の変遷

  1. 黄巾 · 演義・正史 · 「汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等」