演義の場面

龐令明抬櫬決死戦 龐令明抬櫬決死戰

事件紹介

「龐令明抬櫬決死戦」は、演義第74回の回目「龐令明抬櫬決死戦、関雲長放水淹七軍」の前半の場面である。樊城救援に向かう于禁の先鋒となった龐徳は、旧主馬超と兄のために疑われると、木の棺を作らせて担いで出陣し、関羽と百余合を戦い、偽って逃げながら放った矢で関羽の左腕を射当てる。この場面は樊城の戦いの一くだりである。 演義 第74回 §1–7 · 14 · 18–19

陳寿の本文では、魏書巻18の龐徳伝がこの事を記す。龐徳の兄が漢中にいるとして樊城の下の諸将が彼を疑うと、龐徳は今年関羽を殺さなければ関羽が自分を殺すだろうと言い、自ら関羽と交戦してその額を射当てた。 正史 魏書 巻18 §71

演義の描写

演義第74回で、曹操は于禁を征南将軍に、先鋒を買って出た龐徳を征西都先鋒として、七軍を樊城へ送る。七軍の将校董衡が、龐徳は馬超の旧部将であり、実兄の龐柔も西川で仕えているとして交代を求めると、曹操は龐徳の先鋒の印を取り上げる。龐徳は血が流れるほど額を地に打ちつけ、酒に酔って不賢の兄嫁を殺したため兄とは情が絶え、馬超とも旧義は絶えたと申し上げ、曹操は彼を助け起こして慰める。 演義 第74回 §1–5

龐徳は木の棺を作らせて親戚や友人の前に置き、関羽を殺せなければ関羽に殺されるであろうし、殺されなくとも自ら命を絶つとして、空手では帰らない覚悟を示す。妻の李氏と子の龐会に後事を託して棺を担いで出発すると、賈詡の懸念を聞いた曹操は関羽を侮らぬよう戒めるが、龐徳は関羽の30年の名声をくじいてみせると言う。 演義 第74回 §5–9

関羽は大いに怒って自ら出ようとし、先に出た関平が龐徳と30合戦っても勝負がつかない。関羽は自ら出て龐徳と100余合を戦い、双方が鉦を鳴らして退いたのち、龐徳は関公が英雄だという言葉を今日はじめて信じたと言い、しばらく退いて避けようという于禁の言を退ける。 演義 第74回 §10–16

翌日、50余合ののち、龐徳は刀を引きずって逃げると見せかけて矢を放ち、関羽の左腕を射当てる。龐徳が追おうとしたその時、于禁は龐徳が大功を立てるのを恐れて鉦を鳴らして兵を収め、その後も陣営を攻めようという龐徳の言を聞き入れないまま、七軍を樊城の北10里の山あいに移して龐徳を谷の後ろに置く。 演義 第74回 §18–24

演義と異なる点

矢:演義第74回で、龐徳の矢は関羽の左腕に刺さる。正史の龐徳伝は、龐徳が関羽と交戦してその額を射当てたと記す。 演義 第74回 §19正史 魏書 巻18 §71

棺と疑い:演義第74回で、龐徳は実兄の龐柔が西川にいるという言葉で疑われると、棺を担いで出陣する。正史の龐徳伝では、龐徳は兄が漢中にいるとして樊城の下の諸将に疑われ、常に「今年我、羽を殺さずんば、羽まさに我を殺すべし」と言っただけで、棺を担いだという記録はない。 演義 第74回 §2 · 5–7正史 魏書 巻18 §71

駐屯の場所:演義第74回では、于禁が龐徳の功を妬んで七軍を樊城の北10里に移す。正史の龐徳伝では、曹仁が龐徳を樊城の北10里に駐屯させた。 演義 第74回 §23–24正史 魏書 巻18 §72

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

演義の登場回 (1)

正史の登場巻 (1)