曹鑠

正史 魏 Cao Shuo조삭曹铄

プロフィール
職業正その他 · 相殤王所属魏
登場正収録魏書
出生出身地沛国 譙県 推定
実在実在言及正3回

人物紹介

曹鑠は太祖武皇帝(曹操)の子である。母は劉夫人で、豊愍王曹昂と同じ母から生まれた。早くに世を去り、太和3年(229)に追封されて諡を受けた。魏書巻20武文世王公伝は彼を相殤王と呼ぶ。 正史 魏書 巻20 §2 · 6–7

陳寿の本文は彼の字や年齢、没年を記さない。その爵位は子の愍王曹潜、続いて懐王曹偃に受け継がれたが、後継ぎがなく国は除かれ、正元2年(255)に楽陵王曹茂の子曹竦が彼の後継ぎとなった。陳寿は巻20の評で魏の王・公の境遇を論じただけで、曹鑠を個別には扱わなかった。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §7 · 93

正史の記録

武文世王公伝は、武皇帝には息子が25人いたとし、彼らを母ごとに並べる。卞皇后は文皇帝と曹彰・曹植・曹熊を生み、劉夫人は豊愍王曹昂と相殤王曹鑠を生んだ。 正史 魏書 巻20 §2

相殤王曹鑠は早くに世を去った。太和3年(229)に追封されて諡を受けた。青龍元年(233)に子の愍王曹潜が跡を継いだが、その年に死去した。青龍2年(234)には子の懐王曹偃が跡を継ぎ、食邑は2,500戸であったが、4年(236)に死去した。子がなかったので国は除かれた。 正史 魏書 巻20 §7

正元2年(255)、楽陵王曹茂の子である陽都郷公曹竦を曹鑠の後継ぎとした。陳寿の本文で曹鑠が現れるのはこの記録と、武皇帝の子らを並べた冒頭だけで、その字や年齢、没年と死因は記されていない。 正史 魏書 巻20 §2 · 6–7

陳寿は巻20の評で、魏の王・公は国土という名があるだけで社稷の実がなく、禁令と監視で隔てられて牢獄に囚われたのと変わらず、爵位と称号が定まらず封国が年ごとに変わったと述べた。曹鑠を個別には評していない。 正史 魏書 巻20 §93

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力33
  • 政治31
  • 魅力33
  • 徳35
  • 処世31
  • 文芸31
  • 弁舌31
  • 用人31
各項目100点

項目別の根拠

  • 統率正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 武力正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 知力正33推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 政治正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 魅力正33推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 徳正35推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 処世正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 文芸・学術正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 弁舌・外交正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

  • 識人・用人正31推定

    正直接の記録なし — 早世して事績がない魏書 巻20 §7

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻20 「相殤王鑠,早薨,太和三年追封諡」