曹協

正史 魏 Cao Xie조협曹协

プロフィール
職業正その他 · 賛哀王所属魏
登場正収録魏書
出生出身地沛国 譙県 推定
実在実在言及正3回

人物紹介

曹協は魏の文皇帝曹丕の子で、李貴人が生んだ。早くに世を去り、太和5年(231)に追封されて経殤公と諡され、青龍2年(234)に号と諡が再び改められた。伝の題は賛哀王である。 正史 魏書 巻20 §75 · 76–77

青龍3年(235)に子の殤王曹尋が跡を継いだが、正始9年(248)に死去し、子がなかったので封国は廃された。 正史 魏書 巻20 §77

正史の魏書巻20武文世王公伝に短い伝があり、陳寿の本文は彼の字と年齢、死んだ年と理由を記していない。陳寿は巻末の評で、魏の王・公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §76–77 · 93

正史の記録

文皇帝曹丕には九人の息子があり、李貴人は賛哀王曹協を生んだ。 正史 魏書 巻20 §75

曹協は早くに世を去った。太和5年(231)に追封して経殤公と諡し、青龍2年(234)に号と諡を改めて追贈した。伝は改めた号を本文に別に記さず、題に賛哀王と記すだけで、彼の字と年齢、死んだ年と理由も記していない。 正史 魏書 巻20 §76–77

青龍3年(235)に子の殤王曹尋が跡を継いだ。景初3年(239)に500戸を加増され、以前のものと合わせて3,000戸となった。曹尋は正始9年(248)に死去し、子がなかったので封国は廃された。 正史 魏書 巻20 §77

陳寿は巻20末の評で、魏の王・公たちは封国と封土の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そして骨肉の恩情がそこなわれ「常棣」の義が廃されたとして、制度の弊害がここまで至ったのかと嘆いた。 正史 魏書 巻20 §93

3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。

能力値

演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。

統率武力知力政治魅力徳処世文芸弁舌用人
正史
  • 統率31
  • 武力31
  • 知力38
  • 政治35
  • 魅力38
  • 徳42
  • 処世38
  • 文芸38
  • 弁舌35
  • 用人35
各項目100点

項目別の根拠

  • 統率正31推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 武力正31推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 知力正38推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 政治正35推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 魅力正38推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 徳正42推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 処世正38推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 文芸・学術正38推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 弁舌・外交正35推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

  • 識人・用人正35推定

    正直接の記録なし — 早世した王族であることから推定魏書 巻20 §77

正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)

3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。

所属の変遷

  1. 魏 · 正史 · 正史 巻20 「贊哀王協,早薨。太和五年追封諡曰經殤公」