曹矩
人物紹介
曹矩は魏の武皇帝曹操の子で、尹夫人が生んだ。早世して子がなかったため、建安22年(217)に樊安公曹均の子曹敏が彼の後継ぎとなり、臨晋侯に封じられた。黄初3年(222)に范陽閔公と追封されて諡を受け、太和6年(232)に称号が進められて范陽閔王となった。 正史 魏書 巻20 §2 · 37–38
正史の魏書巻20武文世王公伝に短い伝があり、陳寿の本文は彼の字と年齢、死んだ年と理由を記していない。陳寿は巻末の評で、魏の王公たちは封国の名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視で隔てられて獄に囚われたのと変わらなかったと述べた。演義には登場しない。 正史 魏書 巻20 §37–38 · 93
正史の記録
武皇帝には息子が二十五人いたが、尹夫人は范陽閔王曹矩を生んだ。 正史 魏書 巻20 §2
范陽閔王曹矩は早世し、子がなかった。建安22年(217)、樊安公曹均の子曹敏を曹矩の後継ぎとし、臨晋侯に封じた。黄初3年(222)、曹矩を范陽閔公と追封して諡を贈った。 正史 魏書 巻20 §38
黄初5年(224)に曹敏を范陽王に改封し、7年(226)に句陽へ移封した。太和6年(232)に曹矩の称号を追って進めて范陽閔王とし、曹敏を琅邪王に改封した。景初・正元・景元年間に食邑がたびたび加増され、以前のものと合わせて3,400戸となった。曹敏が死ぬと諡を原王とし、子の曹焜が跡を継いだ。 正史 魏書 巻20 §38
陳寿の本文で曹矩が現れるのは、この伝と巻20冒頭の息子の一覧だけである。彼の字と年齢、死んだ年と理由、生前の爵位は記されていない。 正史 魏書 巻20 §2 · 38
陳寿は巻20末の評で、魏の王・公たちは封国と封土という名があるだけで社稷の実はなく、禁令と監視に隔てられて牢獄に閉じ込められたのと変わらず、爵位と称号が定まらず大小の封国が年ごとに変わったと述べた。そして骨肉の恩情が損なわれ、「常棣」の義が廃れたとして、制度の弊害がここまで至ったのかと嘆いた。 正史 魏書 巻20 §93
3KDEX執筆(検収前) — 段落末の表示は、根拠となった正史の巻・演義の回のその節へつながる。
能力値
演義に登場しない人物のため、正史(陳寿『三国志』本文)の点数のみです。
- 統率31
- 武力31
- 知力35
- 政治33
- 魅力35
- 徳40
- 処世35
- 文芸35
- 弁舌33
- 用人33
項目別の根拠
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
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正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正直接の記録なし — 早世して子がなく追封された皇子として推定魏書 巻20 §38
正史 推定 直接の記録がなく、事績から採点した値(根拠等級C)
3KDEX採点 — 正史は陳寿『三国志』本文、演義は『三国志演義』120回本文が根拠。根拠の表示を押すと原文リーディングのその節へ移動します。
所属の変遷
- 魏 · 正史 · 正史 巻20 「黃初三年追封諡矩爲范陽閔公」